今年の受賞作品の傾向は?公式セッションで中心的に議論されていたテーマ・トピックは?事業会社やブランド、マーケターにとっての気づき・学びは?ーーアジェンダノートでは、カンヌライオンズ2025を様々な切り口で、さまざまな関係者と振り返っていく。

 今回の執筆者は、テクニカルディレクターを中心に集めた職能コミュニティ・BASSDRUMのテクニカルディレクターで、今年イノベーション部門の審査員を務めた清水幹太(しみず・かんた)氏。

 同氏は今年、実に9年ぶりにカンヌの地を訪れた。受賞者として壇上でスポットライトを浴びた経験と、デジタル分野のテクノロジストという稀有な立場で複数回審査員を務めた経験を持つ一方、この9年は広告クリエイティブ領域やカンヌライオンズは距離を感じる存在になっていたという。

 清水氏が長年にわたって懸念を抱き続けてきたカンヌライオンズの「毒」と、今年カンヌの地で見出した新たな「希望」とは。9年の空白と、今年の現地での体験は、同氏とカンヌの関係をどう変えたのか。
 

9年間で変化した「カンヌと私」の関係性

 
清水 幹太
BASSDRUM
テクニカルディレクター

 東京都生まれ。東京大学法学部中退。バーテンダー/トロンボーン吹き/DTPオペレーター/デザイナーなどを経て、独学でプログラマーに。2005年12月より株式会社イメージソース/ノングリッドに参加し、本格的にインタラクティブ制作に転身、クリエイティブディレクター/テクニカルディレクターとしてウェブサービス、システム構築から体験展示まで様々なフィールドのコンテンツ企画・制作に関わる。2011年4月より株式会社PARTYチーフ・テクノロジー・オフィサーに就任。2013年9月、PARTY NYを設立。2018年、テクニカルディレクター・コレクティブ「BASSDRUM」を設立。

 筆者がカンヌライオンズの審査員を仰せつかるのは三回目だ。

 最初は2014年のモバイル部門、次に2016年のデジタル・クラフト部門、そして9年ぶりに担当させていただくことになったのが今年、2025年のイノベーション部門ということになる。

 私のように「制作会社出身の技術者」という立場でカンヌライオンズの審査員を担当する人は、日本人の審査員の中でも、おそらく世界中の審査員の中でも、あまり数多くはいない(ゆえに、3回も審査をやらせていただくことになるとは夢にも思わなかった)。数多い審査員の中にあって、自分の特色は、制作・開発現場の人間であり、デジタル分野のテクノロジストであるということ、そして、事業側の仕事をかなりやっているということになるだろう。

 前回審査員をやらせていただいた2016年以来、私は広告クリエイティブの分野からかなり遠ざかることになった。短期的な仕事はゼロではなかったものの、クライアントの長期的な事業に技術顧問的に関わったり、スタートアップの事業に外部CTO(最高技術責任者)的に関わったりすることが増えた。どうしても年単位・短期的な成果を「クリエイティブ」というものづくりの一要素にフォーカスして評価されがちなカンヌライオンズは、自分にとって少し距離を感じる存在になっていた。

 実際、2016年以来、カンヌの街にやってきたことはなかった。そして2025年6月、実に9年ぶりに南仏カンヌに戻ってきた。

 この9年のブランクが「カンヌと私」の間に何をもたらしたのかというと、カンヌを客観視できるようになった、ということだろう。

 9年前までは毎年のように参加していたから、カンヌライオンズは毎年当然のように行われて、毎年のものづくりはカンヌライオンズをある程度意識して行われてきた。

 しかし、9年の間に、すっかり私は「カンヌ抜き」を完了してしまった。普段、カンヌのことを考えてものをつくってなどいないし、毎年の結果もロクに見なくなってしまった。「今年もなんかやってるなー」くらいな距離感になってしまった。

 そして、9年ぶりのカンヌライオンズ。私は一つの大きな感想を持った。

「このお祭りは、本当によくできている」

 という感想だ。
 

カンヌライオンズ、「よくできている」仕組みの功罪


「よくできている」とはどういうことなのかというと、仕組みとして非常によくできているのだ。カンヌライオンズの仕組みとしての完成度は非常に高い。

 期間中、毎日のように行われる表彰式。会場は、本格的この上ないオーディトリアム。海外のテレビでしか見たことのないような、本格的な司会者。レッドカーペット。カンヌ国際映画祭と同じ場所で行われているのだから本格的なのは当然だ。

 ゴールドライオン=金賞以上を受賞した受賞者は名前を呼ばれ、壇上に上がる。審査委員長からトロフィーを手渡される。スポットライトが当たる。幸い、筆者も何回か経験があるが、これはものすごく気持ちいい。

 そして、それを目撃した若いクリエイター、受賞できなかった人々は必ず「来年は、いつかは、あそこに立ってみたい」と思う。強烈な憧れ、強烈な悔しさがそこに生まれる。

 受賞の翌日には、会場に、カンヌライオンズ専門のフリーペーパー「LIONS DAILY」が平積みにされ、参加者が手に取る。そこには受賞作の一覧、スタッフクレジットなどが掲載される。自分の名前が掲載されると、自分が世界的に認められたような気分になる。

 カンヌは小さな町だ。この時期、カンヌの町の話題は、イコール、カンヌライオンズの話題になる。だから、受賞者は町中のヒーローとなる。町を上げてヒーロー扱いしてくれるのだ。このあたりは、ニューヨークやロンドンなどで行われる他のアワードとは違う。

 そして、そんな、喜びと憧れと羨望と悔しさを増幅させる仕掛けが、次の年の参加者のモチベーションを煽る。次は壇上に上がりたい、町のヒーローになりたい。受賞者は、来年も今年と同じように、あの舞台に立ちたい。そんなクリエイターたちの思いが、次の年の応募数を増加させる。「これは」と信じた作品は、安くはない応募費用を払って、複数部門・複数カテゴリに応募する。

 9年間で「カンヌ抜き」を済ませた私にとって、客観的に見たカンヌはこのように「ものすごくよくできた仕組み」だった。

 それが良い仕組みなのか悪い仕組みなのか。

 このような麻薬的な仕組みがあるから、たとえば、実際には効果を上げていない、まともに実施をされていない作品を、成功例としてプレゼンテーションする「賞狙いのスキャム広告」が横行したりもする。今回のカンヌでも、クリエイティブ・データ部門のグランプリ作品が効果を誇大表現したとして、受賞辞退に追い込まれた。

「クリエイター」たちは、カンヌで壇上に上がることを仕事の目的にしてしまうし、それは本来のものづくりの目的や対象を考えると、歪な状態だと言わざるを得ない。

 悪い部分もある。しかし今回、私は「これはこれでアリなのではないか」と、この仕組みを評価することにつながる気づきを得ることになった。良い部分もあったのだ。