DAC?DMC?DNA? 社名決定の経緯


 では、話をDACの設立プロセスに戻そう。

 会社設立に向けて決定していかなければならないことは、すべて株主の合意で進める。そのためにその会場は株主持ち回りで、博報堂の回、旭通の回・・・と回っていき、ちょうどI&Sの回で社名を決めようということになる。

 そしてこの回で、僕は矢嶋弘毅君に出会うことになる。博報堂の担当役員の福島さんから「今日は彼に書記をさせるから」と言われて紹介されたのが矢嶋君だ。

 

矢嶋弘毅(やじま・ひろたけ)氏
1984年、博報堂に入社。96年、DACの設立と同時に代表取締役社長就任。2009年、アイレップ取締役。2016年、D.A.コンソーシアムホールディングス代表取締役社長。2017年、博報堂DYメディアパートナーズ代表取締役社長に就任し、次世代型メディア広告運用モデル「AaaS」を構想し、事業化を推進。2020年、博報堂DYホールディングス取締役副社長を兼務。2021年、博報堂取締役を兼務。


 僕は博報堂側の起案者である笹川くんが出向してくるものだと思っていた。彼と二人で飲んだ時も「旭通からは言い出しっぺの僕が絶対出ていくから、博報堂からはお前が出て来いよ」と話していた。ところが博報堂さんは旭通みたいに「言い出しっぺが行け」なんて人事政策をしていないのだった。

 さて、このI&Sさんの回、当時は三越前にオフィスがあり、20人近くが集まる会なので、 I&Sさんは会社の上にある上野精養軒を会場にしてくれた。

 僕は上野精養軒のコーヒーが大好きなんだが、それは別にして、前述したようにこの回で社名を決定しようということになっていた。

 デジタルガレージの林郁 君(彼との出会いは次回話そう)が「コンソーシアム」というワードにこだわっていた。

 

林 郁(はやし・かおる)氏
大学卒業後に広告制作会社を起業。インターネット黎明期の1995年にデジタルガレージを創業し、ITビジネスの先駆者として業界を牽引。後進の育成やエコシステムの構築にも尽力。2003年から、カカクコム取締役会長を務める。

 対電通連合だからということもあり、「連合体」のイメージを社名に付けたいと考えていた。通常、コンソーシアムというと勉強会とかのニュアンスもあるし、あまり社名につけるのは聞いたことがなかった。ただ響きも悪くはないので、僕は気に入っていた。

社名案はたくさん出たが、最終的に3案に絞られた。

 DAC(デジタルアドバタイジングコンソーシアム)
 DMC(デジタルマーケティングコンソーシアム)
 DNA(デジタルネットワークオブアドバタイジング)

 南場智子さんがDeNAを創業したのは1999年だから、96年創業の僕らが3案目にしていたら、別の社名になっていたかもしれないが・・・。とにかく林君がコンソーシアム推しなので、社名案はDACかDMCのどちらかにということになったところで、旭通の担当役員の高橋久美子常務が、「私もマーケティング畑は長いけど、マーケティングと社名について儲かったためしはないのよ」という一声で、社名はDAC(デジタルアドバタイジングコンソーシアム)となった。

 ちなみに、ロゴは音楽家でグラフィックデザイナーの立花ハジメさんにつくっていただいた。

 いずれにしても、この回(おそらく1996年10月頭くらい)に社名が決まり、僕はその後の盟友・矢嶋弘毅君に出会う。僕は1958年生まれ、彼は61年生まれ。学年は僕が2つ上だが、代表取締役社長は彼で、代表取締役副社長は僕という2代表制になる。
 

1996年、DACがスタート


 そういうことで、1996年12月2日が設立日となり、DACはスタートすることになる。

 一番最初はデジタルガレージの社内に、まもなくデジタルガレージの井の頭通りを挟んで向かい側にある小さなビル(地下1階・地上3階)に、デジタルガレージのインフォシーク事業部が1階、クリエイティブガレージが3階、DACが2階に入って本格的に事業は始まる。

 小さなビルのオーナーは全フロア借りてくれることを喜んで、ビル名を「DAコンソーシアムビル」にしてくれた。

 インフォシーク事業部の事業部長は、旭通の同期の佐藤康夫氏だ。僕が当時の旭通G7ビルのエレベータホールで、僕が「佐藤、インフォシークジャパンの社長やらない?」と声をかけたのが始まり。インフォシークジャパンとはならなかったが、佐藤はこのオファーに二つ返事で応じてくれた。

 

佐藤康夫(さとう・やすお)氏
旭通信社を経て、1996年にデジタルガレージに入社。インフォシーク執行役員副社長やグーグル執行役員営業本部長など、インターネットの黎明期より広告・マーケティングの分野で日本を代表する実績を持ち、現在はアタラ会長およびフィードフォースグループ取締役を務める。

 そもそもDAC設立に参画させてもらうことになる経緯は、僕とデジタルガレージに実に長い付き合いがあったからだ。

 それは、1981年に遡る。(つづく)
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