ミレニアル世代の旗手たち 徳力基彦インタビュー企画 #05

1987年生まれが本丸? READYFOR 米良はるかCEOに聞く、新世代のコミュニケーション論

米良さんとの出会いは、パラリンピアンの寄付集め


徳力  私が初めて米良さんとお会いしたのは、米良さんが大学生のときでした。たしか、2010年バンクーバーパラリンピックに出場するスキーチームへの寄付を集めるためのアドバイスを聞きに来てくれたんですよね。当時は、なぜ寄付を集めていたのでしょうか。

米良  きっかけは東京大学の松尾(豊)先生との出会いです。私が大学3年生のときに所属していたゼミの先生が松尾先生との共同研究を始めたんです。

当時、松尾先生は「SPYSEE(スパイシー)」という人物の検索サイトを運営していました。これはインターネット上にあるメディア記事などから自動で人物名を抽出して、ウィキペディアのように、その人物の情報を載せたページをつくるサービスです。

そうした活動から、将来はインターネットを通じて、本当はすごい実績を持っているのに組織の中で埋もれていた人にもスポットが当たるようになり、その人を応援できる世界になるのではないかと考えました。パラリンピックスキーチームへの支援は、その中のひとつです。選手とたまたまお会いしたときに、何度も優勝しているのに資金が集まっていないという事実を知って、それはおかしいと思ったんです。

徳力  当時、ものすごく強烈な熱量で説得された記憶があります(笑)。

米良  すいません(笑)。ただ、どちらかと言うと、私としては社会課題の解決に興味があったというよりも、テクノロジーが起こす変化で、今まで実現できなかったことをできるようにしたい、という思いが強かったんです。


 

「READYFOR」立ち上げ前の米国留学での経験


徳力  米良さんが大学生だったときは、まだクラウドファンディングという言葉さえ存在していなかったと思います。当初から、起業しようと考えていたのですか。

米良  いえ最初は、あくまでひとつのプロジェクトに参加しているという意識でした。とはいえ、自分でプロジェクトを組み立てて、さまざまな人の協力を仰ぎながら、全身全霊を尽くすという経験が初めてで、自分に向いているなと感じていました。

徳力  いつのタイミングで、これは自分が取り組むべきビジネスだと確信するようになったのですか。

米良  スタンフォード大学に留学したときですね。当時、米国でクラウドファンディングという事業が生まれ、注目を集めていたんです。

徳力  自分がやっていたことに名前があった、と。

米良  まだ定義や名前もなくて、マイクロファイナンスやソーシャルファンディングとも呼ばれていました。ただ、少なくとも米国で同じ概念が出てきたので、マーケットとして成立するかもしれないと感じていました。

徳力  留学中も関心を持ち続けていたのですね。

米良  はい、米国においてインターネット上で支援を募集したら数日で1千万円が集まるという、これまでは考えられなかった状況を目の当たりにして、自分もやるべきだと思ったんです。それがパラリンピックの寄付集めをした翌年の2010年で、大学院1年生のときでした。それから準備を進めて2011年3月に「READYFOR」をリリースしました。
 
クラウドファンディングサービス「READYFOR」

徳力
  法人化したのは2014年でしたよね。3年間はプロジェクトのままだったのですか。

米良  そうです。松尾先生が経営していた会社の一事業のサービスオーナーとして動いていました。当時は、会社の経営に興味はなかったのですが、「READYFOR」をこれからも成長させていきたいと思いましたし、徐々に経営に関して勉強する中で、いま独立しないと自分で買い取れなくなると思い、起業しました。   

マーケターに役立つ最新情報をお知らせ

メールメールマガジン登録