RYUKYU note #01

「元祖 紅いもタルト」が、沖縄の定番お土産になるまでの知られざるストーリー

 

紅いもタルトが売れ始めたきっかけ


――話題にはなっていたものの売れなかったとのことですが、それが今のように売れ始めるのは、どういったきっかけがあったんですか。

専務
 かつて沖縄への飛行機には、今でいう国際便のように軽食が出ていたのですが、1995~1999年の4年間、飛行機のケータリングに当社の紅いも商品が採用されたんです。その間にフライトアテンダントさんなどのクチコミで広がり、少しずつ店舗にも観光客がいらっしゃるようになりました。

それで大型店をつくろうと、実績を積みながら2001年に、お菓子の製造工程がガラス越しに見学できる「御菓子御殿 恩納店」をつくりました。そのときの会社全体の売上9億円に対し、恩納店にかかる費用が13億円だったため周囲には反対されましたが、当時社長だった現会長は絶対に成功すると確信していました。そして、実際に成功させたんです。
 
恩納店

ところが、その3カ月後に米国で同時多発テロが起き、沖縄への観光客が激減。新たに70人の従業員を雇用していたので、その時期は非常にきつかったですね。

ただ、恩納店は沖縄で初めての“見える工場”としたお店ということもあり、徐々に地元の人たちが来てくれて少しずつ売上が伸びていき、そのうちに観光客も戻ってくるようになりました。
 
専務取締役 澤岻千秋氏

社長 その後、全国で沖縄ブームが到来。紅いもにはポリフェノールや食物繊維が豊富に含まれていると、シークワーサーなどと一緒にテレビで取り上げられるようになりました。そのブームに乗れたのも後押しになりましたね。

それからは店舗を増やすごとに売上が伸びていき、今ではテナントも含め11店舗を展開しています。振り返れば、売れていった理由はさまざまありますが、一番は売れない期間も我慢してつくり続けたことだと思います。

専務 村の商工会と一緒にやっていることだから、絶対に迷惑をかけないようにというのが会長の想いだったんですよね。自分たちだけでやっていることだったら、きっとやめていたでしょうね。

――紅いもを使った商品は、紅いもタルトのほかにもいくつかあるとのことですが、中でも特に紅いもタルトが売れていったのはなぜだと思われますか。

社長 紅いもの色を見せたいからと、会長が紅いもタルトを店舗の一番見やすいところに置いたんです。ほかの商品は中の餡に使っているから、表面からは見えないんですよ。県外で開かれる沖縄物産展に出展したときには、紅いもを知らない人たちに「なんで食べ物に紫の色を付けるの」と言われ、これが素材本来の色だと言っても信じてもらえなかったりしましたが、あえて紫色を外に出していったことが、逆にウケたのだと思います。



専務 現在、紅いも商品は全体の6割程度。そのほぼすべてを紅いもタルトが占めている感じです。1日当たりの製造数は9~15万個。年間では3200万個ほどになりますね。芋でいえば、最大1200トンくらい使用しています。最初は紅いもの生産量も少なくて、仕入れも大変だったんです。

それを農家さんとのやり取りを経て、一つひとつ紅いもの栽培を増やしていき、今では140ほどのグループと契約できるようになりました。たとえ形が歪んで一般の市場には売りに出せないものでも、うちは加工用に同じ値段で買い取っているので、農家さんとは良い協力関係ができていると思います。

社長 まさかこんなに読谷の小さなお菓子が売れるとは思っていませんでした。だから、商標も取っていなかったんですよね。そうしたらほかの会社が真似して、お土産としてどんどん売り始めてしまった。

一方で自分たちは、御菓子御殿に来て買ってほしいからと卸をせずに囲い込んでしまっていたので、ほかの会社の様子を見て、慌ててお土産店への卸を始めました。最初から商標を取っていれば、売上はもっと大きかったかもしれませんね(笑)。
 
読谷 本店

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