RYUKYU note #06前編

何もない場所から生まれた、沖縄人気リゾート「カヌチャ」誕生秘話

前回の記事:
知る人ぞ知る、沖縄高級ホテル「百名伽藍」。広告費かけず、数年先まで予約が埋まる理由
 沖縄県は土地柄や歴史的背景に本土と大きな違いがあることから、ビジネスの進め方も従来の方法では、うまくいかないケースがあります。連載「RYUKYU note」では沖縄で活躍する経営者やマーケターをバトンリレー形式でインタビューし、そのサクセスストーリーの裏側にある秘話や、沖縄ならではの戦略や課題、未来の成長に繋がるストーリーをひも解いていきます。

第6回は、沖縄の人気リゾート地として常に上位にランクインする「カヌチャリゾート」を運営する、カヌチャベイリゾートの代表取締役社長 白石武博氏。観光客の入口である那覇空港や、万座やオクマといった西海岸のリゾート地から離れた場所にありながら、リピーターに支持されるエリアに成長した背景や戦略を聞きました。
 

カヌチャとの出会いは16歳だった


――「カヌチャ」は、印象的な名前ですよね。どのような由来があるのですか?

 カヌチャとは、沖縄の言葉で「川の下の浜」という意味があります。この地の川下にカヌチャ浜があり、そこに由来しているそうです。
 
カヌチャリゾート全景

――カヌチャリゾートは、今や沖縄で常に上位にランクインするほどの人気リゾート地ですが、設立当時の北部エリアは道路などのインフラも整備されていない状態だったと聞いています。どういう経緯で、大規模なリゾートホテルをつくろうと考えたのでしょうか。

 その話をするには、まず沖縄が1972年に日本復帰したところから振り返らないといけません。当時は米国の統治下にあり、米国型の社会制度によってコントロールされ、沖縄は日本の高度経済成長から置いてけぼりという状況でした。

 当時の、沖縄の経済人の合言葉は、とにかく「本土並み」。沖縄の社会全体が、日本の平均に追いつこうと必死でした。どうしたら沖縄を自立させられるか、いろいろな方法を考えた末に行き着いたのが「観光」です。ハワイのようなリゾート地を目指すことで、なんとか経済を自立させようと考えていました。

 それを後押しするように、1975年に「沖縄国際海洋博覧会」という国際イベントが開催されたことで沖縄観光に火が付き、さらには道路も含めたインフラも整備されて、南北で人や物の流れがスムーズになっていきました。

 一方で、名護市の東海岸に位置するカヌチャは昔、漁業と林業の町でした。山から木を切って薪にして船で南部に出荷していたのですが、家庭用ガスなどが整備されていくにつれて衰退しました。その残った広大な林地をなんとか活用し、南北を移動する人が溜まるような観光の基地ができないかというのが、カヌチャリゾートの最初の構想です。
 
カヌチャベイリゾート 代表取締役社長 白石武博氏。

 その構想を私が父から聞かされたのは1978年、16歳のときでした。先代である私の父は当時バス会社を経営しており、沖縄国際海洋博覧会に運輸の面で大きく関わっていました。そういった関係で現在のカヌチャプロジェクトにも構想段階から加わっていました。

 父は、当時高校1年生の私をその場所に連れていき、「このプロジェクトには膨大なお金と年数が必要になるため、とても自分の代では実現できないから、次の担い手としてお前もプロジェクトに加わらないか」と話をされたんです。そのときは、「山しかないような場所だし、こんなところにリゾートなんて何を言っているんだ?」と思っていましたけど(笑)。

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