成長企業から考える「マーケターの定義」 #01
博報堂という会社の人間として生きるのか?マーケターという職業人として生きるのか?【Indeed 水島剛】
博報堂の懐の深さに感動して入社を決意
こんにちは。水島剛です。Indeed japanのマーケティングディレクターとして、日本におけるマーケティング領域全般を担っています。まずは連載の初回なので、僕がどういったキャリアを経て、今の仕事になったのかという話をしたいと思います。これから数回に渡り、いくつかのマーケティングテーマに関して執筆していく予定ですが、僕のキャリアを知っていただくことが、今後執筆していく内容の前提になるので、少し細やかに書いていきます。マーケターという職業で働きたいと思っている若い方たちのひとつの参考にでもなれば(奇抜過ぎてならないか?笑)嬉しいです。
僕は2004年に米国・ボストン大学を卒業して、縁あってボストンキャリアフォーラムでお会いした博報堂でキャリアをスタートしました。大学時代の僕を知っている人に聞いたらわかると思いますが、とてもサラリーマンが務まるような人間ではなく、博報堂に出会わなければ、おそらく今ごろは旅人にでもなっていたと思います。
髭を生やした写真を貼り、修正液で何ヵ所も修正したエントリーシートで面接に臨み、「言葉の力で世の中を変えたいからコピーライターになりたい」という、留学生を採用したい会社側のニーズを全く無視した志望動機を語った僕に、博報堂の人事の方は、名刺と会社案内を渡して「業界の本と会社案内を読んでください」という言葉と「ぜひ博報堂に入社してほしい」と言ってくれました。
その博報堂という会社の懐の深さに感動した僕は、その後10年間、世間一般の感覚からすると厳しい環境でありつつも、ぬくぬくとしたサラリーマン生活をおくることになります。
同期の中で一番早く辞めそうだと言われていたわりには、10年も働くことになったのは、「粒揃いよりも、粒違い」を尊重する素敵な博報堂の文化があったからで、そこで得られた経験に、今でも深く感謝しています。
さて、入社してテストと研修を受けて、面接を経た結果、配属された職種は「ストプラ」でした。正式名称はストラテジックプランナーで、役割は営業担当と一緒に企業の悩みを聞いて、それを基に市場調査データなどを分析したうえで課題を整理し、その解決の方向性を示し、アウトプットをつくるクリエイティブやプロモーション担当にブリーフィングを行い、施策の効果を検証する、といったような仕事です。
ただ、僕の場合は博報堂のストプラ局の中でも少し変わったチームに配属されたので、最初に取り組んだ業務はデータ分析ではなく、コピーを書くというものでした。
市場を分析する前に、世の中にどういった存在として担当している商品が位置づけられると良いのか、といったところを先にイメージを持ち、そのコンセプトを打ち出すことが正解かどうかを調査や分析によって明らかにしていき戦略ストーリーを組み立てていく、というのが、このチームの仕事の進め方だったのです。
結果、このとき同じチームで働いていたメンバーの多くが、今はクリエイティブに職転し、戦略からエクゼキュ―ションまでを描き切れるクリエイターとして活躍しています。
この時は、現博報堂ケトルCEOの木村健太郎さんも同じチームにいて、入社1年目の僕のトレーナーとして仕事の型をたくさん教えてくれました。クライアントへ新人の僕を紹介する際に、「彼は宇宙人です」と紹介されたことが、13年前のことながらリアルに思い出されます。
志願して九州と大阪に赴任した理由
そんな感じで、中途半端にアメリカナイズされた僕が東京本社で4年間ほど働き、大手ナショナルクライアントをいくつか担当したのち、九州支社に行くことにしました。当時、博報堂には多段階キャリア制度という、8年間で2回環境を変えてプロフェッショナルになるという制度があったのですが、僕は職転ではなく、働く場所とクライアント規模を変えようと思いました。大きなチームの部分的な業務をやるよりも小さなチームでアカウント全体を見たいと思ったのです。そして、東京で学んだ先輩から教わった仕事の型を、自分なりに九州で色々と試しながら、充実した日々を過ごしました。ちなみに当時の九州支社のマーケティングチームは3人体制で、現場2人の内1人が東京に帰らないとポジションが空かない状態だったのですが、当時の九州支社長は僕が東京時代に担当していたクライアントを担当していた営業の局長だったので、直談判をして引っ張ってもらいました。博報堂という会社は、社内で転職(異動)活動をするような文化がありました。
そして3年後、2回目の異動タイミングで、今度は関西支社に行こうと思いました。九州よりも少し大きめの規模のクライアントやチームの環境で、より幅広いソリューションを自分自身が中心となって統合プランニングしていく経験が積みたかったのです。想定していた業務の経験が積め、そこで出会ったクライアントさんとは、今でもたまに飲みに行くほど仲良くさせていただいています。
ちなみに、この時の異動も、支社長に直談判して引っ張ってもらっています。当時の関西支社長は、元九州支社にいた方だったので、紹介してもらい会いにいったのです。多段階キャリア制度における支社から支社への異動は相当異例だったらしいですが、若者の我儘を面白いと捉えてくれる心の広い方が、博報堂には、たくさんいたのです。