行動経済学で理解するマーケティング最新事情 #16

人生はスマホゲームと同じ?「親ガチャ」「子ガチャ」に注目が集まる背景

前回の記事:
24時間テレビから考えた、SDGsの「賛同者」を増やす方法
 

容姿や頭脳、運動神経も運次第…


 最近、「親ガチャ」「子ガチャ」という言葉をよく聞くようになりました。言葉自体は2021年より前に使われていたのですが、この数ヵ月、大手メディアが報道することで、より広く知られるようになりました。

 「ガチャ」とは、スマホゲームのガチャ(特別なグッズやキャラクターを得るための仕組み)に由来します。レアアイテムやレアキャラが登場する確率は非常に低く、その意味において「アタリかハズレかは運次第である」という意味が込められています。

 すなわち、「親ガチャ」「子ガチャ」という言葉には、どんな努力をしたとしても、生まれてきた環境や容姿、頭脳、運動神経は運であり、どの親のもとで生まれてくるか、あるいはどんな子どもが生まれてくるかは「ガチャ」のようなもの、という意味が込められていると考えれば良いでしょう。

 せっかくの授かった命を何だと思っているのか、なぜ努力して逆境を跳ね除けないのかという綺麗ごとは、この際ですから止めましょう。今回は、この「ガチャ」という言葉が注目を浴びる背景に焦点を絞り、そこから社会を覗いてみたいと思います。
 

人間が生み出した「努力」という呪い




 まず大前提として、筆者も世の中の大半は「運」だと考えています。

 「運」の良し悪しを、「道徳」の良し悪しに紐付けて考える「道徳的運」という認知バイアスがあるように、自分の幸運や不運を自分の行為に関連して考えたくなる気持ちは分かります。「情けは人のためならず」ということわざもあるくらいです。

 ただ、自分に何かが本当に返ってくるのかは立証不可能ですし、すなわち「そうであって欲しい」と考えているだけのような気もします。

 筆者は昔、両親が離婚した後に母子生活支援施設で数年間、母と妹の3人で仲良く暮らしていました。6畳ほどの部屋でトイレは共同、風呂無しシャワーのみ、見たことのない大きさのゴキブリが出るような施設でした。今で言うところの、生活困窮家庭だったと思います。

 そうした環境にあって、奨学金で大学に通えたのは、親の支えもありますが、偶然であり運でもあります。「努力したから」と言えるような生存者バイアスは持ち合わせていません。内閣府「子供の貧困に関する現状」によると、大学進学率は全世帯で73%ほど、ひとり親家庭で58%ほど、生活保護世帯で33%ほどです。世帯年収が下がるほど進学率が下がるのですから、筆者はイレギュラーな存在に過ぎません。

 その後、アドテク黎明期に広告効果測定サービスの開発に携われたのも、10冊以上の書籍を出せたのも、偶然であり運だと考えています。筆者本人の努力ではありません。書籍に関して言えば、すごく頑張って書いたのに売れなかったものもあれば、かなり脱力して書いたのにすごく売れたものもあります。そんなものです。

 努力をすれば、何かを達成するかもしれません。しかし、達成しないこともあります。「こんなに努力したのに!」と憤る気持ちも分かりますが、それは「公正世界仮説」といって、人間の行いに対して公正な結果が返ってくると考える認知バイアスそのものなのです。

 「努力をすれば報われる」のであれば、報われない者たちは「努力をしていない」「努力が足りない」と言っているに等しいでしょう。こうした思考が極端に偏ると、大地震を前に「天罰」と口走る政治家が現れたり、「カーストが低いのは前世の業が悪かったから」と言い出したり、犠牲者側を非難する傾向にあります。

 結局、人は努力を信じたいのです。人間が生み出した一種の呪いとも言えます。

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