行動経済学で理解するマーケティング最新事情 #21

問題を先送りしがちな人が、失っている大切なものとは?

前回の記事:
ウクライナ侵攻の悲惨な映像で、心を痛めている人へ
 

激動の1カ月だった人も多いはず


 4月に新年度を迎え、人事異動でマーケティング部門に新たに所属された方々、新入社員としてマーケティングに携わる職場に配属された方々にとって、この1カ月は振り返る間もなく、怒涛の如く過ぎ去ったのではないでしょうか。

 急激な環境変化は、知らず知らずにストレスとなり、環境に適応しようという無理がたたり、いわゆる「5月病」のような症状になる人もいます。かく言う私も、初めての転職では無理をし過ぎて、5月には完全にバテてしまい、心身に異常をきたした経験があります。

 あの時、なぜ私は無理をしてしまったのか。今にして振り返ると「新天地に来たからには、とにかく実績を出さねばならない」という焦りが、自分を勝手に追い詰めていたと分かります。

 「成果をあげる」、これはマーケターのみならず、全てのビジネスパーソンに課せられた使命です。ただ一方で、環境、仕事内容、メンバーが変わり、仕事の難易度が上がった場合、今までと同じような成果をすぐにあげるのは、本来なら至難の業ではないでしょうか。


 

問題の先送りを生み出す「双曲割引」


 今年で社会人16年目を迎え、いわゆる中堅層になった私にとって、最も難儀なのは「全く新しい仕事への挑戦」だと痛感します。なぜなら、今までの経験則が通用せず、売上を上げるための「勝利の方程式」が見えないからです。

 これまでは、過去の案件から帰納法で共通点を発見し、仮説を導き出し、理論にまで昇華すると、新たな案件でも対応できました。理論に「確からしさ」が加わると、今度は演繹法で理論に案件を当てはめ、問題を解決してきました。私はこれを「理論と実践のサイクル」と名付けています。

 ところが「全く新しい仕事」は理論が通用せず、仮説も当てはまりません。そういう事態に、数年前から何度も遭遇するようになっています。

 この対処法として、「アカデミア」の力を求めました。具体的には、マーケティング関係の論文を読んだり、大学院に入学して学び直したり、著名なマーケターの書籍を読んだり、オフラインの勉強会に参加したりしました。ようは他人の理論を拝借し、自分なりに咀嚼して実践したのです。私はこれを「巨人の肩に乗る作戦」と名付けています。
 
 例えば、41カ国の携帯電話会社のデータを用いて、1人あたり新規顧客の獲得コストと既存獲得の維持コストを研究した「Customer Acquisition and Retention Spending」(Sungwook Minら, 2016)によれば、原則として既存顧客の維持コストは安く(新規は既存に比べて平均2~5倍高い)、競合が増えるほど新規顧客獲得コストは増えるが、既存顧客の維持コストは変わらないという結果が明らかになっています。こうした知識と理論を知った上で、実践に取り組めば、今までにない戦略と結論が導けます。

 ただし、他人の理論を咀嚼するには、それなりの時間を要します。その間は「この仕事に向いていないのではないか」「自分には能力が無いのではないか」と自己嫌悪に陥りながら、仕事を続けることになります。

 その結果、今まで慣れ親しんだ仕事、今までと変わらない難易度の仕事に手を出して「やっぱり、こっちの仕事が向いているのではないか」と悦に入ることもしばしばありました。それが結果的に後輩の仕事を奪い、自分がいずれ挑戦しなければならない仕事を遠ざけていることも、もちろん分かってはいました。

 遠い将来の苦痛なら我慢できても、近い将来の苦痛は我慢できない。同じ経験でも、時間軸が変われば、受け止め方が大きく変わります。これを行動経済学で「双曲割引(そうきょくわりびき)」と言います。

 双曲割引は「今日と明日の違いは、明日と明後日の違いより大きい」と説明されています。人間は「今すぐ」に得られる利益を過大評価する傾向があり、「ちょっと待つ」ことでより大きな利益を得られたとしても、待てないのです。

 例えば、今すぐ5%引きと1カ月後に10%引きなら「今すぐ」を選びますが、6カ月後に5%引きと7カ月後に10%引きなら「7カ月後」を選ぶでしょう。同じ「1カ月の差」でも、時間軸が違えば選択肢は変わります。

 双曲割引は「問題の先送りの本質」と言われています。私はまさに、自分自身で双曲割引によって自己変化を遠ざけていたと言えます。

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