マーケティングは、どこまで人間を理解できるのか #28

「人間の嗅覚はオワコンではない」共感覚比喩によるコミュニケーションを考える

 

人間の嗅覚はオワコンではない


 日本語や多くの西洋言語で、においを表現する語彙が少なく、においに関する会話も少ないというのは、おそらく間違いない事実です(Majid, 2021)。そしてそこから帰納的に、人間の言語は全般にそうなのだと近年まで信じられてきました(McGann, 2017)。しかし最近になって、その理由の推測も含めてさまざまな誤解がありそうだということが分かってきました。順を追ってみていきましょう。

 古代からずっと、科学的にも一般的にも、人間の嗅覚は他の感覚(特に視覚や聴覚)よりも劣った感覚とみなされ、また他の多くの動物の嗅覚よりも劣っているとされてきました(McGann, 2017)。たとえば、少なくない進化生物学者が、視覚と嗅覚はトレードオフの関係にあり、それが身体や脳の解剖学的構造に反映されていると主張してきました(Majid, 2021)。一般の人の例では、米国、英国、中国などさまざまな国の7,000人の若年層を対象とした調査で、約50%の回答者が、携帯やノートパソコンを手放すくらいなら嗅覚をあきらめるだろうと答えたそうです(脚注2)。

 しかし最近になって、さまざまな側面から反論が出てきました。たとえば、人間にはにおい分子の受容体が350種類も存在し、それらを駆使して1兆もの数のにおいを弁別できると見積もられています(Bushdid et al. 2014)(脚注3)。これは、10年ほど前までの想定よりはるかに多く、他の多くの動物の嗅覚や、人間の嗅覚以外の感覚に比べて劣っているわけでもなさそうです(Gross, 2015)。

 また、現生人類とネアンデルタール人の脳の形態学的変化を比較した研究では、嗅球など嗅覚情報の処理に関わる脳部位の発達が、現生人類において顕著であることが発見されました。この論文では、現生人類の学習能力や社会性の進化のなかで、嗅覚機能の寄与はこれまで過小評価されていたかもしれないと述べられています(Bastir et al. 2011)。

 考察として、嗅覚は、食物の選択、危険回避、パートナー選びなど、生存に直結する行動に影響を与えると考えられています。例として、腐敗した食物や有害な物質の匂いを識別する能力は、生存のために極めて重要だということが挙げられます。

 実際の例として、COVID-19のパンデミックで、世界中で多くの患者に嗅覚の低下がみられ、その患者の分析から、現代の精神面や生活の質においても、嗅覚が非常に重要であることが改めて確認されました。たとえば、9,000人の患者を対象にしたイギリスの調査では、食事の楽しみだけでなく、社交の楽しみも失い、それにより他者との絆が弱まって孤立感が高まり、現実から切り離されたと報告されています(脚注4)。携帯やパソコンに変えられるかは、はなはだ疑問でしょう。



 嗅覚の語彙が少ないという問題についても、実態は、社会・文化的要因や言語体系によるものであって、視覚とのトレードオフではないようです。これまでの研究が英語を中心に西洋のものに限られていたため、知見や解釈が偏っていたことが誤解の原因だったようです。

 というのも、世界中の多くの言語を調べてみると、思いのほか多くの言語で、異なる種類の匂いを詳細に区別するための語が豊富に含まれることが分かったからです(Majid, 2020)。狩猟採集中心の少数民族も多いですが、タイ語や広東語など、産業化されて多くの話者のいる言語も含まれています(Wnuk et al. 2020; de Sousa 2011)。

 このように、最近の研究の潮流としては、嗅覚が単なる劣った感覚ではなく、言語、文化、生物学と深く関連していることを強調しています。嗅覚は人間の生存や社会的行動において重要な役割を果たしており、その認知は言語や文化的背景によって大きく異なるのです(Majid, 2021)。ですから、文化的背景を考慮することで、嗅覚に関する異文化理解が深まり、嗅覚を活用した新たなコミュニケーション手法やマーケティング手法の開発が進む可能性もあるでしょう。そして、この場合の文化的背景というのは、国やマーケットの違いだけでなく、世代や性別、さらにはその他の消費者セグメントの違いにも当てはまると考えています。

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