海外ニュースから読み解くマーケティング・トレンド #11
プライバシーよりも公衆衛生が優先される事実。コロナが浮き彫りにした「データと正義」
コロナ禍で浮き彫り「データは誰のためのもの?」
アップルが先日、同社の世界開発者会議WWDC 2020で発表した「IDFA (Identifier for Advertisers:ユーザーの端末に割り当てるID)の使用制限に関する発表」は、世界が新型コロナウイルスの脅威にさらされる前からマーケティング業界で話題だった「個人のプライバシー保護のためのデータ利用規制」という文脈を思い出させました。
思えば2020年とは、年初にアップルがCESでプライバシー保護を強調したこと、そして欧州のGDPR(EU一般データ保護規則)の流れから同時期に適用されたCCPA(カリフォルニア消費者プライバシー法)に至る、データを活用したテクノロジーの発展を個人の視点から改めてとらえなおす契機だったわけです。
もちろんこの文脈は、コロナ禍でも重要なことに変わりはありませんが、その流れが少し変わったことは否めません。
なぜなら新型コロナウイルスの拡散を防ぐという目的で、中国をはじめとした国家レベルで、個人の行動経路をトラッキングすることが推奨されたからです。そして、アップルもグーグルと共同で、政府と保健機関が新型コロナウイルス陽性者と濃厚接触者したかどうかを追跡できるプラットフォームを提供することになりました。
もちろん、これらはユーザーの同意が前提であり、それぞれの位置情報や個人情報にはアクセスできませんが、個人のデータを公衆衛生という観点からとらえなおすと、「プライバシー保護」は必ずしも最優先事項でなくなることがわかります。
コロナ禍によってもたらされた、このような経験によって、「データとは究極的には、誰のためのものか」という問いが生まれます。普遍的な個人の権利という面よりも、現実的により良い社会をどのようにつくるか、という政治的な倫理が色濃く反映されるということです。
その意味で、中国ではコロナ禍以前から書籍『アフターデジタル』の著者である藤井保文氏が、その印象を「より良い社会のために個人のデータを提供することに躊躇や不安がない」国としてとらえていたことが思い出されます。実際、中国のコロナ禍の対応は、個人は社会における価値を最大化するために存在する、という共産主義国家であることを感じさせるものでした。
したがって、この議論は、単に欧米やアジアという単なる地域や文化の差ではなく、国家(社会)と個人の関係性から生まれる「データは誰のためのものか」という視点で進んでいくと考えられます。今後、企業が扱うべきデータとは、その企業が属する社会や国家において、提供していく商品やサービス、そして、それを購入する立場の消費者である「個人」との関わりを示すものとして考えられていくでしょう。
企業が個人に対して自社サイトで収集する「ファーストパーティデータ」に加えて、個人の合意をきちんと得て獲得した「ゼロパーティデータ」が新しくマーケティングに導入されてきたのも、そうした関わりをとらえなおす議論の中で生まれたと考えるべきです。
クッキーなどの「サードパーティデータ」が個人の許可なしに活用されることが制限される一方で、データに関して「これは誰のためのものか」を問う「ゼロパーティデータ」は単に個人情報保護という観点ではなく、社会において「個人」という単位がどのような立場になっていくのか、についても考えさせらます。