今、世界的にビジネスにおけるマーケティングの役割が激しく変容している。広告コミュニケーションに留まらず、企業や事業の価値を押し上げ、成長にダイレクトに貢献することがこれまで以上に求められる。本連載では、厳しさを増すグローバルマーケティングの世界で奮闘し、進化し続けるグローバルマーケターに焦点を当て、独自の価値を発揮するために必要なものを探っていく。
第3回は寝具メーカーのテンピュール・シーリージャパンやコアラスリープジャパンなど数々の企業でマーケティングを統括し、組織づくりから事業成長までを牽引したDazzle Fusion Inc.代表の尾澤恭子氏にインタビュー。20代で渡米し、ITバブルに沸くシリコンバレーで複数事業を立ち上げた経験を核とする尾澤氏のユニークなキャリアと、先の見通せない現代こそ身に付けたい「負けたら明日はない」覚悟と実践知に、前後編にわたって迫る。
第3回は寝具メーカーのテンピュール・シーリージャパンやコアラスリープジャパンなど数々の企業でマーケティングを統括し、組織づくりから事業成長までを牽引したDazzle Fusion Inc.代表の尾澤恭子氏にインタビュー。20代で渡米し、ITバブルに沸くシリコンバレーで複数事業を立ち上げた経験を核とする尾澤氏のユニークなキャリアと、先の見通せない現代こそ身に付けたい「負けたら明日はない」覚悟と実践知に、前後編にわたって迫る。
「どうすれば儲かるか」常に考える
―― 尾澤さんは一風、ユニークな経歴をお持ちです。米国でスタートアップに参画されたのは、どんな経緯があったんでしょうか。
短大卒業後、スポーツアパレルメーカーのゴールドウィンに入り、広告宣伝部に配属されました。CMや雑誌に載せる広告を担当していましたが、当時はその仕事をマーケティングとは意識していませんでした。1990年代、まだバブルの残り香がある頃ですね。
仕事自体は楽しかったのですが、通勤に1時間半以上かかることもあって1年半ほどで辞めました。まだ、女性がひとり暮らしをすることに抵抗感のある時代です。家から比較的近いところで働こうと、たまたま紹介を受けて、空港のクリスチャンディオールの免税店で販売の職につきました。海外に憧れがあったので、空港で働けるのが「ラッキー!」と(笑)。凝り性なので、1本5千円くらいの口紅をバンバン売って、リピーターもついてカウンターで一番の売上を達成しました。でも9カ月ぐらい働いてチーフ昇格を打診された時、ハッとします。「私がやりたかったのはこれじゃない」と。
とにかく海外に行きたいけれど、お金はないのでワーキングホリデーでオーストラリアへ渡りました。1年後に帰国しましたが、何も習得していない…。この時期はとにかく衝動に突き動かされていましたね(笑)。
今度こそきちんと勉強しよう。手に職を付けよう。希少価値が高い仕事をしようと決意し、「宝石鑑定士」という職業を目指して米国に渡りました。ロサンゼルスの語学学校に通ううち、現地でアパレルのビジネスをやっていたパートナーに出会い、1999年にシリコンバレーでオンライン決済の会社を一緒に立ち上げました。アマゾンがオンライン書店をスタートしたのが1995年で、Eコマースの時代が来るという予感がありました。その中で何をしたら儲かるかを考えたときに、どんなビジネスでも最終的に必要になる「決済を押さえれば勝つ」と思ったんです。
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Dazzle Fusion Inc. 代表
尾澤 恭子 氏
内資メーカーの広告宣伝部を経て1999年にシリコンバレーでスタートアップベンチャーに参画。オンライン決済、ウェブホスティング、開発、ウェブマーケティング、雑誌社などの事業をゼロから立上げ成長させる。2008年に帰国後、複数の事業立ち上げ経験を強みにテンピュール・シーリージャパンのマーケティング統括、フライシュマン・ヒラード ジャパンのデジタル部門ヴァイス・プレジデント、オリックスのデジタル戦略リードを経て2021年にコアラスリープジャパンに参画。セールス・マーケティング全般をハンズオンで統括し、短期間で業績のV字回復を実現、33カ月連続で昨対同月売上を更新。2018年より個人コンサルタントとしても美容、ヘルスケア、レジャー等の分野におけるマーケティングおよびDXプロジェクトを支援してきたが、よりフレキシブルな働き方と活動範囲を求め法人化、2024年10月に独立。
尾澤 恭子 氏
内資メーカーの広告宣伝部を経て1999年にシリコンバレーでスタートアップベンチャーに参画。オンライン決済、ウェブホスティング、開発、ウェブマーケティング、雑誌社などの事業をゼロから立上げ成長させる。2008年に帰国後、複数の事業立ち上げ経験を強みにテンピュール・シーリージャパンのマーケティング統括、フライシュマン・ヒラード ジャパンのデジタル部門ヴァイス・プレジデント、オリックスのデジタル戦略リードを経て2021年にコアラスリープジャパンに参画。セールス・マーケティング全般をハンズオンで統括し、短期間で業績のV字回復を実現、33カ月連続で昨対同月売上を更新。2018年より個人コンサルタントとしても美容、ヘルスケア、レジャー等の分野におけるマーケティングおよびDXプロジェクトを支援してきたが、よりフレキシブルな働き方と活動範囲を求め法人化、2024年10月に独立。
―― 1990年代後半にインターネットが一気に普及し、IT企業への投資が増える「ITバブル」と呼ばれる現象が起こった時期ですね。2000年前後のシリコンバレーでの起業は、どのようなものだったのですか。
自分がやらなければ他に誰もやってくれず、負けたら明日がないという状況です。会社を登録し、オフィスを借り、電気や水道の手続きをして、張り紙を貼って中国人のエンジニアをひとり雇い、クレジットカードでオンライン決済できるシステムをつくりました。けれど、そのことを知ってもらわないと当然ながら使ってもらえません。書店で買ったフォトショップの古い手引き書を見ながら会社のWebサイトを自分でつくりました。ECをやっていなくても、物販をしている日本の商店を手当たり次第に調べて営業メールを送ったのですが、ほとんど返信をいただけませんでした。けれど、中に親切な方がいて、「メールの書き方がなっていない。気持ちは伝わるけれど、それでは進められない」と教えてくれたんです。ビジネスメールの書き方もわきまえていなかったんですね。それで初めてテンプレートをつくり、効率的に送るようにすると少しずつ顧客が集まり出しました。
そのうち日本の風呂敷や折り紙など、海外向けに売りたいけれどホームページすら持っていないという企業が現れ、「それなら」ということでEC付きのホームページを簡単につくれるサービスを始めました。さらに「サイトに訪問者が来ない」という悩みを持つ企業のために検索エンジン登録代行サービスを始めたり、バナーエクスチェンジの仕組みもつくったりしました。さらに買った人に段階的にメッセージを送れるメルマガ配信システムもつくりました。CRMシステムの原型のようなものです。
このように、始まりは決済サービスでしたが、課題が現れるたびに解決し、サービスも拡張していきました。当然ながら、自分たちもこれらに習熟しなければいけませんから、マーケティングとは意識せずに実践を重ねていきました。
―― 時代的にECが普及していくとともに、尾澤さんも課題を一つひとつクリアしながら会社を成長させ、マーケティングや経営の実践知を培われたのですね。
そうですね。シリコンバレーで学んだのは、いくら戦略が良くても、必要なことを実行していかなければ意味がないということです。「これは私の仕事じゃない」「他の部署にお願いしたい」はありません。売上を伸ばすために有効なことなら、制限なく自分の行動や、ビジネスを広げていきました。
その頃のシリコンバレーはみんなIPOを目指していて、いろんなインキュベーションオフィスがビルに入っていました。窓の外を見るとどの会社も深夜まで電気がついていて、それを見ると「自分たちも帰れない」と思う。そんな時代でした。
革新的なアイデアがあると、いきなり莫大な投資を受けるスタートアップ企業もあり、そういった環境で常に「どうやったら儲かるか」を考えました。儲かるというのは、誰かの課題を解決するから儲かるわけです。「何か解決できる課題はないか」をずっと考えて生活していました。同時に、「失敗したら明日は事業を続けられない」という緊張感がありました。この頃の経験は、今の自分にとっても思考や行動のコアになっています。