広告業界の激動の半世紀を、現場の第一線で見つめ続けてきた横山隆治氏が綴る「広告維新伝」。マス広告の黄金期からインターネット広告の勃興、そしてAIがつくる新時代までを、「ネット広告事始め」篇~「横山青年立志」篇~「上場と闘争」篇~「知の継承」篇の大きく4篇(予定)に分けて振り返る。
現在の広告界の礎を築いた伝説的人物たちとの間で交わされた会話や、急成長を遂げた業界内での熾烈な競争、試行錯誤の現場で生まれた数々のエピソードなど、広告の裏側と人間ドラマを鮮やかに描き出す。
本連載は、横山氏の43年の広告人生と、30年にわたるネット広告の歩みを通して、日本の広告の「始まり」と「進化」を追体験する試み。これからの業界をつくり上げていく現代のアドパーソン・マーケティングパーソンの仕事にも活きる学び・気づきに満ちた軌跡を辿る。
今回は「ネット広告事始め」篇の第1回。
時はインターネット広告黎明期、1956年に社員わずか4人で創業し、半世紀足らずで国内広告業界第3位の規模へと成長した広告会社・旭通信社の役員応接室が舞台となる。インターネット広告のメディアレップ・DAC(デジタル・アドバタイジング・コンソーシアム)の立ち上げに向け、横山氏は当時の旭通信社会長・稲垣正夫氏をはじめとする経営層とともに、着々と準備を進めていた。
現在の広告界の礎を築いた伝説的人物たちとの間で交わされた会話や、急成長を遂げた業界内での熾烈な競争、試行錯誤の現場で生まれた数々のエピソードなど、広告の裏側と人間ドラマを鮮やかに描き出す。
本連載は、横山氏の43年の広告人生と、30年にわたるネット広告の歩みを通して、日本の広告の「始まり」と「進化」を追体験する試み。これからの業界をつくり上げていく現代のアドパーソン・マーケティングパーソンの仕事にも活きる学び・気づきに満ちた軌跡を辿る。
今回は「ネット広告事始め」篇の第1回。
時はインターネット広告黎明期、1956年に社員わずか4人で創業し、半世紀足らずで国内広告業界第3位の規模へと成長した広告会社・旭通信社の役員応接室が舞台となる。インターネット広告のメディアレップ・DAC(デジタル・アドバタイジング・コンソーシアム)の立ち上げに向け、横山氏は当時の旭通信社会長・稲垣正夫氏をはじめとする経営層とともに、着々と準備を進めていた。
「横山、お前が直接稲垣さんを説得して来い」
「横山さん、これはミニコミですね。」
僕が「インターネット広告はこんな感じです」とラップトップでバナーを見せると、稲垣さんの第一声がこれだった。ミニコミといっても読者にはピンと来ないだろうが、当時は地域版のフリーペーパーなどを指していた。
1996年の5月、僕は旭通信社(以下、旭通)の稲垣正夫会長に、デジタル・アドバタイジング・コンソーシアム(以下、DAC。この時点ではまだ社名は決まっていない)を博報堂とデジタルガレージと一緒につくりたいと直談判していた。
当時「サイバービジネス開発室」という部署をつくってもらって室長をしていた僕は、インフォシークを担いでインターネット広告のメディアレップをつくろうと(もちろん転籍も覚悟で)、博報堂・笹川博之氏と起案書をつくってそれぞれ経営陣に稟議を上げていた。
稲垣正夫(いながき・まさお)氏
外務省勤務を経て、1956年に社員わずか4人で旭通信社を創業。 日本広告業協会副理事長、日本広告業厚生年金基金理事長などを歴任
外務省勤務を経て、1956年に社員わずか4人で旭通信社を創業。 日本広告業協会副理事長、日本広告業厚生年金基金理事長などを歴任
笹川博之(ささがわ・ひろゆき)氏
博報堂DYグループ傘下で、CRM領域・ダイレクト通販領域を中心に企業のマーケティング課題を解決するBrandXing(ブランドクロッシング)の代表取締役社長などを務める。
博報堂DYグループ傘下で、CRM領域・ダイレクト通販領域を中心に企業のマーケティング課題を解決するBrandXing(ブランドクロッシング)の代表取締役社長などを務める。
しかし旭通の場合、創業者会長の稲垣さんを説得しないと何も前に進まない。それに、間にいる本部長や常務、社長も「横山、お前が直接稲垣さんを説得して来い」ということなので、G7ビル(今は朝日広告社さんが入っている)の13階の役員応接で一対一の直談判となったわけだ。
というのも、稲垣さんと僕は、僕がペーペーの時代から二人だけで話をする機会が多くあった。入社して何年かは稲垣さんと同じフロアで、彼から7~8メートルくらいの距離に机を置いていた。社長室はあるのだが稲垣さんはそこには入らず、大部屋の真ん中に自分の席を置いていた。
そのころはまだ土曜日が隔週で出勤(15時まで)だった。土曜日にしか受注伝票を書く時間がなかった僕が、夕方まで伝票作業をしていると、よくオフィスで稲垣さんと二人きりになった。後ろからトントンと肩を叩かれ「横山さん、そろそろ帰りましょう」と言われて、一緒に電気を消し、フロアの鍵を掛けて退出することが何度もあった。
とはいえ社長には社長車(デボネア)が下で待っていて、稲垣さんはクルマで帰宅する。「横山さん、一緒に乗って行きなさい」と言われ、うかつにも乗ってしまった僕はえらく後悔した。僕が関わっている部長や副本部長について仕事ぶりを細部まで聞かれたのだ。「これはスパイになってしまう」と思い、二度目からはいろいろ理由をつけて絶対にデボネアには乗らなかった。
初めての直談判は、旧態依然とした社内ルールへの反抗
実は稲垣さんへの直談判はこれが最初ではなかった。
僕のカミさんは旭通の同期なのだが、当時社内で結婚すると女性は会社を辞めろという、恐ろしく前時代的な慣習がまかり通っていた。「どちらかが辞めればいいのなら僕がやめましょうか」と言うとえらくびっくりされたが、「今までずっとそのようにしてきたので、横山さんのケースから認めるわけにはいかない」の一点張りで、人事担当役員も取り付く島もない。
そこで僕は稲垣さんに直談判に行った。
当時、旭通は上場を果たしており、広告代理店の中では財務状況はとても良かったと思う。僕は百歩譲ってプライベートカンパニーならともかく、株式を公開してパブリックな会社として資金調達を果たしていながら、労働基準監督署に訴えたら即アウトの社内ルールを未だに押し付けるのはおかしいと稲垣さんを説得した。
その時から「こいつは嫌な奴だ」と思っていたに違いない。特に正論をかざしてくる奴が、稲垣さんは嫌いだ。
「僕のカミさん」
1982年慶応義塾大学文学部卒、同年4月に旭通信社入社。企画部、マーケティング部などを経て、92年9月に第一企画に転職。マーケティング局で、主に女性向けブランドのマーケティングをストラテジックプランナーとして経験。女性対象のグループインタビューのモデレータ、デプスインタビューのインタビュアーとしてのスキルを磨く。 2004年12月に(有)シックス・サイトを創業して代表取締役就任。シックスサイトとは、女性の6つの景色、woman、worker、wife、mother、housewife、daughter を表している
1982年慶応義塾大学文学部卒、同年4月に旭通信社入社。企画部、マーケティング部などを経て、92年9月に第一企画に転職。マーケティング局で、主に女性向けブランドのマーケティングをストラテジックプランナーとして経験。女性対象のグループインタビューのモデレータ、デプスインタビューのインタビュアーとしてのスキルを磨く。 2004年12月に(有)シックス・サイトを創業して代表取締役就任。シックスサイトとは、女性の6つの景色、woman、worker、wife、mother、housewife、daughter を表している




メルマガ登録


