マーケターズロード山口有希子 #01
実力が評価されるフェアな場所を探して――パナソニックコネクト山口有希子のキャリア序章
2025/06/10
通関士の資格を取り、女性総合職第1号に
―― 退職したのは、何年目くらいだったのですか。
3年目くらいだったかな。バブルが弾けて不況に陥った世の中で、大した経験値のない第二新卒の女性が総合職で転職しようというのは無謀でしたね。当時は、実家が東京にないということも大きなマイナスでした。なので、しばらくは派遣会社で働き、資格を取りながら就職活動をしていました。
資格として取得したのは、通関士でした。次に何をしようかなと考えたときに、大学のESS(英会話部)のディベートセクションを通して培った英語力を生かして、海外と関わる仕事がしたいと思ったんです。そして、たまたま拾ってくれたのが、名古屋に本社があるメーカー系商社。そこの女性総合職第1号として、入社することになりました。
何のご縁もない名古屋に単身で転勤する必要があったので、いま振り返っても、けっこうワイルドな選択だったなと思います。結果、本当に貴重な学びと経験が得られました。
経営企画室に配属され、海外プロジェクトの担当として、香港やシンガポールに支社や合弁会社、工場をつくるといった仕事に携わりました。大きな商社ではなかったので、他にもパソコン周辺機器の輸入や、新商品のローカライズ、新製品のPR、POPの作成や広告の出稿、ショップに立っての販売まで、マーケティング活動も含めてさまざまな経験をさせてもらいました。当時は、1年のうち3分の1はシンガポールに滞在していたこともありました。

―― 当時、そうした仕事に未経験から就けたこと自体が異例だと思いますが、それができたのはなぜだったと思いますか。
やはりご縁なのではないでしょうか。その会社に入るまで、数十社は落ちていますから。その中で、当時の社長が「私に会ってみよう」と思ってくださって。面接でおもしろいと思っていただいたのか、名古屋の本社に迎えていただきましたね。
私がひとりで名古屋に来ているというのを会社のみんなが知っていたので、よくご飯を食べさせてくれましたし、その中で経営の話をたくさん聞かせてもらいました。経営陣は一部上場会社で社長や役員を務めたことがある人が多く、本当におもしろい話をいろいろと聞きました。有り難いことに、今でもお付き合いは続いています。
その会社には5年勤めました。女性の総合職第1号だったので周りが扱いに慣れていなくて大変なことも多かったですが、辞めるときには「いつでも戻ってこい」と言ってもらいました。
振り返ってみると、当時の私は「どこかにきっと、自分をきちんと評価してくれ、機会を与えてくれる場所があるはずだ」という強い思いに突き動かされていたように思います。
性別や若さに縛られず、能力そのもので評価されたい。その一心で行動し続けたこの時期は、まさにフェアな場所を探す旅の始まりで、私のキャリアの原点ともいえる時間でした。
次回「外資で鍛えた『実行力』 異文化のなかでマーケターとして覚醒」(6月17日公開予定)に続く
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