「広告維新伝」 広告人生43年とインターネット広告30年史 #02
広告維新伝【第2回】後の盟友、DAC社長となる矢嶋弘毅氏との出会い
2025/11/25
広告業界の激動の半世紀を、現場の第一線で見つめ続けてきた横山隆治氏が綴る「広告維新伝」。マス広告の黄金期からインターネット広告の勃興、そしてAIがつくる新時代までを、「ネット広告事始め」篇~「横山青年立志」篇~「上場と闘争」篇~「知の継承」篇の大きく4篇(予定)に分けて振り返る。
現在の広告界の礎を築いた伝説的人物たちとの間で交わされた会話や、急成長を遂げた業界内での熾烈な競争、試行錯誤の現場で生まれた数々のエピソードなど、広告の裏側と人間ドラマを鮮やかに描き出す。
本連載は、横山氏の43年の広告人生と、30年にわたるネット広告の歩みを通して、日本の広告の「始まり」と「進化」を追体験する試み。これからの業界をつくり上げていく現代のアドパーソン・マーケティングパーソンの仕事にも活きる学び・気づきに満ちた軌跡を辿る。
今回は「ネット広告事始め」篇の第2回。
前回に続いて、DAC(デジタル・アドバタイジング・コンソーシアム)立ち上げの舞台裏に迫る。旭通信社会長・稲垣正夫氏、同社長・多氣田力氏、「昭和の怪物」徳間康快氏、DAC初代社長となる矢嶋弘毅氏、デジタルガレージ創業者の林郁氏、インフォシーク事業部を率いた佐藤康夫氏。DAC立ち上げに関わった「大物」たちによって、事態は凄まじいスピードで進行していった。
現在の広告界の礎を築いた伝説的人物たちとの間で交わされた会話や、急成長を遂げた業界内での熾烈な競争、試行錯誤の現場で生まれた数々のエピソードなど、広告の裏側と人間ドラマを鮮やかに描き出す。
本連載は、横山氏の43年の広告人生と、30年にわたるネット広告の歩みを通して、日本の広告の「始まり」と「進化」を追体験する試み。これからの業界をつくり上げていく現代のアドパーソン・マーケティングパーソンの仕事にも活きる学び・気づきに満ちた軌跡を辿る。
今回は「ネット広告事始め」篇の第2回。
前回に続いて、DAC(デジタル・アドバタイジング・コンソーシアム)立ち上げの舞台裏に迫る。旭通信社会長・稲垣正夫氏、同社長・多氣田力氏、「昭和の怪物」徳間康快氏、DAC初代社長となる矢嶋弘毅氏、デジタルガレージ創業者の林郁氏、インフォシーク事業部を率いた佐藤康夫氏。DAC立ち上げに関わった「大物」たちによって、事態は凄まじいスピードで進行していった。
当時の旭通信社・多氣田社長に腹を立てた一件
「横山君、まずいよ!徳間さんが入ってくると」
多氣田さんが血相変えて僕のところへ来た。
「まずいって、どうしてですか?」
多氣田さんは「徳間さんが入ると稲垣さんはこの話には乗らないよ」という。事情を聞いてもあまり要領を得ない。
多氣田 力(たけだ・つとむ) 氏
1961年に旭通信社に入社、1996年に代表取締役社長に就任。1999年に旭通信社と第一企画が合併してアサツー ディ・ケイに社名変更したが、引き続き代表取締役社長を務めた。2001年に取締役相談役となり、2003年3月に退任。2017年に80歳で逝去。
1961年に旭通信社に入社、1996年に代表取締役社長に就任。1999年に旭通信社と第一企画が合併してアサツー ディ・ケイに社名変更したが、引き続き代表取締役社長を務めた。2001年に取締役相談役となり、2003年3月に退任。2017年に80歳で逝去。
はっきり言わないのだが、どうやらその昔、稲垣さんは徳間さんと不仲になったということなのだ(実は多氣田さんも詳しいことは知らない)。
いやいや不仲だったからといって、博報堂と旭通が主導的に進めてきたこの話に、たった5%入ってきたからといって、今さらナシにすることはないだろう。そう思うのだが、多氣田さんはこれまたこの話を、僕一人で稲垣さんに説明に行けという。
仕方がない。覚悟を決めて話にいくしかない。
そしてこの話をすると、稲垣さんは「5%は博報堂さん分から出すんですよね?」と聞いてきて「そうだ」と答えると、「いいんじゃないですか?」とあっさりしたものだった。
ほっとしたと同時に、脅かした多氣田さんに腹が立ってきた。
僕は会長に今回の件を説明すると、すぐさま踵を返して、多氣田さんのところに行った。 「多氣田さ~ん、会長、『いいんじゃないですか』って言ってましたよ。脅かさないでくださいよ!」入社以来の上司で社長になった多氣田さんに、僕はこの時ほど強い調子でものを言ったことはなかった。とてもいい人なので、僕も社長に向かってずいぶんな態度だったと反省したが、当の多氣田さんの恐縮ぶりも面白くて、笑ってしまった。
とにかくその昔の話はいろいろ伝説化するのだが、警戒するに越したことはない。どこで虎の尾を踏むかもしれない。
何より重要だったのは、相手からどう見えているかに注意を払いながらも、それによって事を進めるスピードを落とさないように意思決定・行動することだった。必要であれば、相手が会長でも社長でも、すぐ会いに行く。速攻行動あるのみだ。
鮮烈な「徳間康快」体験
さて、この徳間康快さん、「右翼の大物」とか「昭和の怪物」のように語られていたが、5%の株主となったので、DACの代表二人(後述の矢嶋と、横山)で決算説明に行くことになる。
新橋の第一京浜沿いの徳間書店ビル、この最上階は全フロア社長室というか徳間社長スペースになっていて、お邪魔すると徳間さんは着物に雪駄といういで立ち。怒鳴りつけられたらどうしよう、まさか日本刀で切りつけないよな・・・とおどおどしながら決算説明をすると、なんだか優しくて、目を細めてかわいい息子たちが頑張っているのを見て「よろしい、よろしい」という反応。
しかし、話がDACの経営から窓の外の新橋駅ビルに及ぶと、「この汚いビルは爆破しないといかん!」とか言い出す。
「ば、ば、爆破ですか・・・」
緊張したり、ほっとしたり、そののちびっくりの初「徳間康快」だった。この決算説明はDACが上場するまで4回くらい続いただろうか。毎回高級どくだみ茶をお土産にいただいてくるのだ。すごく高級品で他にないものなので、何度目かはこれを持って帰るとカミさんが「あれ、今日は徳間さんのとこ行ってきたの?」と言われるようになる。
今でもどくだみ茶を見ると徳間さんを思い出す。亡くなった時は、矢嶋君とともに、高輪プリンスの飛天の間で行われたお別れの会に行った。歴史的人物に会えたことは本当に貴重な体験だった。
徳間康快(とくま・やすよし) 氏
徳間書店初代社長。1954年に徳間書店の前身となる「東西芸能出版社」を設立。一代で出版・映画・音楽などメディアを幅広く抱える徳間グループを育て上げた。スタジオジブリを傘下に収め、制作の総指揮者として高畑勲、宮崎駿両監督のアニメ映画制作を後押しし、『もののけ姫』を大ヒットさせるなどの手腕を発揮した。2000年に78歳で逝去。
徳間書店初代社長。1954年に徳間書店の前身となる「東西芸能出版社」を設立。一代で出版・映画・音楽などメディアを幅広く抱える徳間グループを育て上げた。スタジオジブリを傘下に収め、制作の総指揮者として高畑勲、宮崎駿両監督のアニメ映画制作を後押しし、『もののけ姫』を大ヒットさせるなどの手腕を発揮した。2000年に78歳で逝去。




メルマガ登録















