「広告維新伝」 広告人生43年とインターネット広告30年史 #03
広告維新伝【第3回】バンド仲間が学生起業、フロムガレージ誕生
2025/12/16
「アウト・オブ・眼中」は僕がつくったフレーズ
学生の頃、英語購読の授業のあとに一緒にキャンパスに出てきた仲間に、僕が思いついて披露した造語が「アウト・オブ・眼中」だった。
その後、この言葉は結構広まった。SNSなど全くない世界でどう広まったか、口コミ以外にはない。男女間の関心の方向に皆興味津々だったから、うまくハマったのだろう。
その仲間の中には、DREAMS COME TRUEのベーシスト・中村正人君もいた。50人いるクラス(第二外国語を何を選ぶかで決まる)のうち男子学生は10人を割るので、男同志の結束力が結構働く。このたった10人足らずの中に、中村正人君に加えて、あの「私をスキーに連れてって」の脚本家・一色伸幸君がいたのだ。いろんなことを思い出すが、そのあたりは別の機会があれば・・・。

左から中村正人氏、一色信幸氏、横山隆治氏
フロムガレージとして創業したこの会社は、SP会社になり、旭通信社の僕とも仕事をするようになる。厚川君はフロムガレージ(デジタルガレージ)の良心で、彼とやっていればトラブルはないと信用できた。
そのフロムガレージがデジタルガレージに社名を変える前後に、彼らに伊藤穣一君(Joi)がジョインする。
伊藤穰一(いとう・じょういち)氏 ※第1回にも登場
ベンチャーキャピタリスト、起業家、作家、学者として、主にテクノロジーの倫理とガバナンスの課題に取り組む。千葉工業大学学長、デジタルガレージのチーフアーキテクト・共同創業者兼・取締役、複数の非営利団体、民間企業の取締役、アーリーステージのweb3ファンドgmjpディレクター。
ベンチャーキャピタリスト、起業家、作家、学者として、主にテクノロジーの倫理とガバナンスの課題に取り組む。千葉工業大学学長、デジタルガレージのチーフアーキテクト・共同創業者兼・取締役、複数の非営利団体、民間企業の取締役、アーリーステージのweb3ファンドgmjpディレクター。
僕はまさに、彼からインターネットを教わった。富ヶ谷のマンションに(有)エコシスという彼の会社があり、そこにあったワークステーションで見せてもらったのがインターネットの世界であった。
「例えば、子どもが夏休みの自由研究の宿題をするとして、インターネットを使えば、そのテーマについて世界で一番知見がある人に聞くことができる」ーーこれがJoiの説明だったが、僕はそれにすごく反応した。「たしかにすごいな・・・」
Joiの薦めるインターネットのエントリーソフトの「カメレオン」で、僕はインターネット体験をする。でもこのカメレオンにはブラウザがない。ブラウザがないインターネットなんて、若い読者には想像がつかないだろうが、NCSA Mosaic(※注2)などが普及するのはこの後だったように思う。
※注2 NCSA Mosaic
米国立スーパーコンピュータ応用研究所 (NCSA) から1993年にリリースされたWebブラウザ
ブラウザがないのに何をやっていたんだと思うに違いない。まずメール。でもメール相手はほとんどいない。次にニュースグループ(特定のテーマごとに分けられた電子掲示板のようなもの)。いろんなところからファイルをダウンロードでき、僕はレッドツェッペリンなどのmidiファイルをダウンロードして自分のライブラリーに整理していた。音源としては実にチープで、今のようなきれいな音じゃない。
それが90年代初頭だっただろう。Joiを迎えたデジタルガレージは大きく変わっていく。大学生相手のプロモーションから、インターネットを担いでその後の成長を果たす。この頃からインターネットテクノロジーのイベント「Interop Tokyo」などにも関わるようになった。まだまだ企業のシステム部門が相手である。ただ、急速に拡がっていく確信を皆が共有していた。エバンジェリストとしてのJoiの存在は非常に大きかったと思う。
そして95年の年末に孫正義さんがヤフーを日本に持ってくることになる。ヤフージャパンをつくろうということになり、孫さんはJoiにも意見を求める。すると僕にも情報が入ってくる。どうやら電通とソフトバンクでヤフージャパンの広告枠を売るメディアレップができそうだというのだ。
インターネットを使った最初のビジネスは「広告」
とうとうインターネットで本格的なビジネスが始まる。読者は忘れているかもしれないが、インターネットを使った最初のビジネスは「広告」だ。要は、ネット世界に入っていくために皆が通るところに看板を建てようという話である。
さて、当時のヤフーは人海戦術で、ネット上に存在するホームページを見て、分類してディレクトリに収める作業をしていた。検索窓もあるが、これはヤフーのディレクトリの中だけが検索対象だ。
そしてJoiは当時アメリカでヤフーと双璧だったインフォシークに目をつける。彼が言うには、インフォシークは「スパイダー」というプログラムがインターネット中を這いまわり、自動的にインデックスしていくから、人の目で集めるヤフーをすぐに凌駕するという(実際はヤフーも、すぐにこうしたプログラムを使うようになる)。
その上、広告もクッキーを使ってブラウザを特定して、その人の興味のあるカテゴリーの広告を配信できるのだという。一気にいろんな技術の話をされて消化するのに苦労したが、なるほどテクノロジーではインフォシークが優位なのかもしれないと僕は思った。というか、思ってしまった。
そしてインフォシークの専売メディアレップ構想が動き出す。1996年は僕にとって、そうした年になった。
この先80年代のバブル期の広告業界にずっぽり浸かったアナログ広告屋の僕が、テクノロジーがどう広告市場に適応するかを判断していくようになる。そこに、ブランドマーケティングを15年近く実践してきたことが役に立つ。
次回は、どんな体験があったかを少し説明しよう。(つづく)

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