「広告維新伝」 広告人生43年とインターネット広告30年史 #09

広告維新伝【第9回】勢いを増すヤフー、ボロボロのインフォシーク

前回の記事:
広告維新伝【第8回】マイケル・ジャクソン黄金期に経験した音楽の仕事
 広告業界の激動の半世紀を、現場の第一線で見つめ続けてきた横山隆治氏が綴る「広告維新伝」。マス広告の黄金期からインターネット広告の勃興、そしてAIがつくる新時代までを、「ネット広告事始め」篇~「横山青年立志」篇~「上場と闘争」篇~「知の継承」篇の大きく4篇(予定)に分けて振り返る。現在の広告界の礎を築いた伝説的人物たちとの間で交わされた会話や、急成長を遂げた業界内での熾烈な競争、試行錯誤の現場で生まれた数々のエピソードなど、広告の裏側と人間ドラマを鮮やかに描き出す。

 本連載は、横山氏の43年の広告人生と、30年にわたるネット広告の歩みを通して、日本の広告の「始まり」と「進化」を追体験する試み。これからの業界をつくり上げていく現代のアドパーソン・マーケティングパーソンの仕事にも活きる学び・気づきに満ちた軌跡を辿る。

 前回までは、「アドパーソン」の枠に収まらない横山氏が「どうつくられたか?」を、多種多様なエピソードを通じて振り返ることを通じて、現代のアドパーソン・マーケターが自身の“可動域”=仕事の幅を広げていくためのヒントを探った。

 今回は、1996年のDAC(デジタル・アドバタイジング・コンソーシアム)スタート時に話を戻す。インフォシーク専売のインターネット広告会社として始まったDACだが、ヤフーの勢いが増す中、とある「事件」をきっかけに運命が大きく動き出す。
 

 

ネットが繋がらないインターネット広告会社


 1996年に、インターネット広告会社・DAC(デジタル・アドバタイジング・コンソーシアム)がスタートすることになり(第2回を参照)、オフィスを整備していく中で、会社を興すと直面する事態があちこちで起こった。

 実に当たり前のことなのだが、大きな会社に入ると誰かがやってくれているので、思いつかないことが多い。たとえば、掃除なんかもそうだ。頼まなくても誰かがやってくれると思っている。DACオフィスができて数週間は、オフィス清掃を発注できていないことが判明して、僕も矢嶋君も掃除していた。
矢嶋弘毅(やじま・ひろたけ)氏 ※第2回にも登場
1984年、博報堂に入社。96年、DACの設立と同時に代表取締役社長就任。2009年、アイレップ取締役。2016年、D.A.コンソーシアムホールディングス代表取締役社長。2017年、博報堂DYメディアパートナーズ代表取締役社長に就任し、次世代型メディア広告運用モデル「AaaS」を構想し、事業化を推進。2020年、博報堂DYホールディングス取締役副社長を兼務。2021年、博報堂取締役を兼務。


 DACの回線も、デジタルガレージが「これは最新のT1なので1.5メガだ」というので「おお、すごーい」と喜んでいたが、そもそもそれは井の頭通りを挟んだデジタルガレージのオフィスから赤外線で飛ばされていて、とにかくすぐ切れる。雨が降っても切れるし、井の頭通りを背の高いトラックが通っても切れた。

 今となっては笑い話だが、当時は切実だった。インターネットをビジネスにしているのにネットが繋がらないのだから。

 

とある「事件」をきっかけに浮上した、インフォシーク専売への疑念

 僕にとっては、人がサイトを視認してディレクトリをつくる人海戦術のヤフーより、スパイダーがクロールしてインデックスを自動生成するインフォシークはとにかく期待値大だ。すぐにヤフーを抜いて利用率ナンバーワンになるものと思っていた。

 ところがインフォシークの日本語ローカライズはほとんどできていなかった。当初の検索エンジンは、早稲田かどこかの学生がつくった「千里眼」とかを代用していた。

 また当時のインフォシークのディレクトリは、僕のカミさんに「全然おかしいよ」と言われた。カミさんは慶應大学文学部図書館情報学科なので「シソーラス」(単語やフレーズの意味的な関係性を体系化したデータベース)を学んだ立場からダメ出しされた。

 どう直せばいいかを教えてもらったが、広告商品としてはディレクトリはあまり重要ではなかった。検索結果やディレクトリよりも、「株価」とか「ニュース」といった各情報サービスのほうへのアクセスが期待できた。

 ただこれらはかなりの投資が必要で、広告商品として売れるという確約はできないし、逆に広告主には事前にPVを確約できない。こうした中で、「株価」に関しては今のようにリアルタイム株価を提供できなかった。新聞のように前日の終値を掲示するのが精一杯だった。それでも証券会社のボタン広告は売れた。ところが、インフォシークはその株価の終値でさえ、ちょっとした反則を犯して収集していた(「ちょっとした」ではないかな笑)。

 それではマズいので、僕は東証に出向いて「株価データを売ってほしい」と正面切って話に行った。すると「株価データは、証券会社以外には売ったことがないのですが、インフォシークさんは何台のパソコンに表示されるのでしょうか?」と尋ねられた。

 若い読者は知らないかもしれないが、その昔、証券会社の店頭ではたくさんのモニターに株価が映し出されていた。東証の担当者は、株価データはモニター1台あたりいくらという料金設定なのだと言う。

 「うーん…クッキー(ブラウザ数)からすると10万台くらいですかね」
 そうなると天文学的な金額だ。僕は泣く泣く退散してきた。

 しかし1週間くらいすると、その若い東証の担当者から電話がかかってきた。「横山さん、あの額は、当然ですがリアルタイムデータです。なので、あえて20~30分くらいディレイさせて供給するなら月額500万くらいでもいいかと思います」とのこと。なかなか気の回る人だ。20~30分とおっしゃるので、僕は間髪を入れず「20分でお願いします」と言った。

 20分ディレイとはいえ、東証が月額500万で株価データを供給してくれる。僕は意気揚々と帰ってきて、インフォシーク事業部に話した。

 ところがインフォシークはその500万が出せないという。ヤフーに先んじて、株価を終値ではなく準リアルタイムで提供できればキラーコンテンツになるだろう。「その広告枠は絶対に売ってくるから、どうか買ってくれ」と主張したが、インフォシーク側は消極的だったというか、結論から言うと買わなかった。

 インフォシーク事業部の事業部長には、僕が旭通信社の同期だった佐藤康夫君を連れてきた。自分がリクルートしてきた同期なのだから、同じ方向を向いてくれると思っていたが、それは僕の思い上がりだった。

 当時のデジタルガレージの財務状況はかなりひっ迫していたと思う。そんな中で乾坤一擲のインフォシークだったが、投資しきってもう金は出ない。そんな状況に佐藤君を連れてきたのは僕で、彼の立場に立てば、この件に金を出すのは簡単ではなかった。
佐藤康夫(さとう・やすお)氏 ※第2回にも登場
旭通信社を経て、1996年にデジタルガレージに入社。インフォシーク執行役員副社長やグーグル執行役員営業本部長など、インターネットの黎明期より広告・マーケティングの分野で日本を代表する実績を持ち、現在はアタラ会長およびフィードフォースグループ取締役を務める。


 そうしてこの件は、すぐにヤフーに持って行かれた。昔ヤフーの株価が20分ディレイだったことを覚えている方もまだいらっしゃることだろう。あの「20分」は僕の仕事です(笑)。

 さて、この事件(僕にとっては「事件」だった)から、僕はインフォシーク専売に疑念を持つ。「このままではDACはインフォシークと一緒に沈没する」と思うようになった。DACはインフォシーク以外を販売してはいけない契約だった。

 ただ、それにはインフォシークが一定以上の媒体力を担保しなければならない。PVはあまり伸びない。ヤフーがどんどんカテゴリーキラーのコンテンツを「ヤフー○○」として強化していく。資金とマンパワーで圧倒されていた。

 

脱・インフォシーク専売

 「このままではDACはインフォシークと一緒に沈没する」ーー もちろん矢嶋君もそう思っていた。というか、彼は最初からそう思っていた。僕はフロムガレージからの15年来の彼らとのしがらみもあるが、矢嶋君は人事命令で来たから、極めてクールに考えていた。

 インフォシークが低迷することで、「脱・インフォシーク」を図りたいDACと、そうさせたくないデジタルガレージの対立構造ができてきた。当初、矢嶋君は僕がデジタルガレージ側に寄っているのではないかという思いがあったようだ。20年来の親友が創業メンバーで、同期を送り込んだ僕がデジタルガレージ寄りになるのでは?というのは誰でも考えたことだろう。僕がそうではないと矢嶋君に信用させるには少々時間がかかった。

 拡張工事中の井の頭通り沿いのDACビルからは、仕事終わりには代々木八幡駅に至る商店街に何軒かの行きつけの店ができた。当時は、僕、矢嶋君、第一企画・I&S・読売広告社からの出向者がそれぞれ一人、そして矢嶋君が博報堂から来てもらった秘書役のIさんの6名。みんな酒飲みだった。とにかく毎日飲んで帰る。

 僕はその昔、ビールメーカー担当で本当にたくさん飲んだので、この時期にはセーブしていてせいぜい週2回くらい。矢嶋君と二人で飲む機会もそんなに多くはなかった。ただ二人で飲むときは、しっかりと突っ込んだことを忖度なく話した。

 矢嶋君は飲むと、よく僕と笹川博之君が書いた起案書が「ペラペラの2~3枚だった」と言って非難した。彼は博報堂入社以来マーケティング部門で、企画書書きが仕事だったから、思うところがあったんだろう。僕は「起案書なんてなくても会社はできるぞ」と開き直って応戦した。

 
笹川博之(ささがわ・ひろゆき)氏 ※第1回にも登場 
博報堂DYグループ傘下で、CRM領域・ダイレクト通販領域を中心に企業のマーケティング課題を解決するBrandXing(ブランドクロッシング)の代表取締役社長などを務める。横山氏とともに、DAC設立の起案書を作成した。


 僕は旭通信社に起案書を出して、自分の意志でDACに出向したが、矢嶋君はそうではなかった。人事命令だったから、彼にとってはショックだった。「なんでこんな会社に出向しなきゃいけないんだ」ーー 酔うと愚痴がたくさん出てきた。

 しかし、僕は博報堂の人事はすごいなと思った。その後思い知ることになるが、この矢嶋弘毅なる男には、実に持って生まれた経営者の資質があった。(つづく)

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