「広告維新伝」 広告人生43年とインターネット広告30年史 #8
広告維新伝【第8回】マイケル・ジャクソン黄金期に経験した音楽の仕事
2026/07/29
広告業界の激動の半世紀を、現場の第一線で見つめ続けてきた横山隆治氏が綴る「広告維新伝」。マス広告の黄金期からインターネット広告の勃興、そしてAIがつくる新時代までを、「ネット広告事始め」篇~「横山青年立志」篇~「上場と闘争」篇~「知の継承」篇の大きく4篇(予定)に分けて振り返る。現在の広告界の礎を築いた伝説的人物たちとの間で交わされた会話や、急成長を遂げた業界内での熾烈な競争、試行錯誤の現場で生まれた数々のエピソードなど、広告の裏側と人間ドラマを鮮やかに描き出す。
本連載は、横山氏の43年の広告人生と、30年にわたるネット広告の歩みを通して、日本の広告の「始まり」と「進化」を追体験する試み。これからの業界をつくり上げていく現代のアドパーソン・マーケティングパーソンの仕事にも活きる学び・気づきに満ちた軌跡を辿る。
今回は、「横山青年立志」篇の最終回。 「アドパーソン」の枠に収まらない横山隆治氏が「どうつくられたか?」を、多種多様なエピソードを通じて振り返ることを通じて、現代のアドパーソン・マーケターが自身の“可動域”=仕事の幅を広げていくためのヒントを探る。
本連載は、横山氏の43年の広告人生と、30年にわたるネット広告の歩みを通して、日本の広告の「始まり」と「進化」を追体験する試み。これからの業界をつくり上げていく現代のアドパーソン・マーケティングパーソンの仕事にも活きる学び・気づきに満ちた軌跡を辿る。
今回は、「横山青年立志」篇の最終回。 「アドパーソン」の枠に収まらない横山隆治氏が「どうつくられたか?」を、多種多様なエピソードを通じて振り返ることを通じて、現代のアドパーソン・マーケターが自身の“可動域”=仕事の幅を広げていくためのヒントを探る。
キリンビール協賛で「アメリカン・ミュージック・アワード」の特番制作
音楽がビジネスになると、趣味としてのリスナーではいられない。
以前に書いたように、広告会社に入って仕事がしたいと思えたのは、趣味であった音楽との関わりがあったからだ。ライ・クーダーを使ったパイオニアの「ロンサムカーボーイ」のCMはその象徴だった。
そしてバブル期は、広告と音楽はお互いの力を使ってより大きな効果を生む時代になっていた。僕はキリンビールさん担当になって、音楽がメインの仕事でいうと、「アメリカン・ミュージック・アワード」(注1)と「ハイネケン・シティ・ライブ・ツアー」(注2)のふたつに関わることになる。
注1
アメリカン・ミュージック・アワード:グラミー賞、ビルボード・ミュージック・アワードと並ぶ、アメリカの3大音楽賞のひとつ。伝説的プロデューサーのディック・クラークによって1973年に創設された。ファンの投票によって受賞者が決定されるのが最大の特徴。
注2
ハイネケン・シティ・ライブ・ツアー:1980年代から1990年代にかけて日本で開催されていた音楽ライブ・イベント。ライブハウスでハイネケンを飲む習慣を広める目的で開催したもので、国内外の著名なアーティストを招聘して各地の都市で開催された。
マイケル・ジャクソンが音楽界にとどまらず社会現象になっていた頃、クインシー・ジョーンズがプロデューサーとなった『We are the World』が大いに話題となった。
USA For Africa - We Are The World 1985年にアメリカのアーティスト45名が「USA for Africa」として結集し、アフリカの飢餓救済のために制作したチャリティソング。
これだけのミュージシャンが一同にスタジオに入ることができたのは、「アメリカン・ミュージック・アワード」の授賞式終わりという、これ以外はない絶妙なタイミングだったからだ。
「このインパクトあるコンテンツを活かして、一社提供の特番をつくりましょう!」という提案にキリンビールさんに乗っていただいたのは、僕のアドマン人生の中でも幸運なことだった。「グラミー賞がレコード大賞なら、アメリカン・ミュージック・アワードは歌謡大賞みたいなもので・・・」などと、当初はずいぶん雑な説明をしていた記憶がある。
僕が生まれた1958年は第1回グラミー賞の年。グランプリはアントニオ・カルロス・ジョビンの『イパネマの娘』だ。ちなみにマイケル・ジャクソンも同い年。「アメリカン・ミュージックア・ワード」は1974年にスタートしている。
ブリティッシュロックマニアの僕にとって、アメリカンポップ中心の「アメリカン・ミュージック・アワード」は趣味の範囲ではない。ただし、仕事となるとそんなことは言ってはいられない。クライアントに聞かれた質問には即答するつもりで聴き込んだし、情報も洋楽雑誌を中心に頭に入れておいた。普段は『ロッキング・オン』しか読まない僕が『ミュージック・ライフ』を読んで勉強した。
実際、5年間提供を続けていただいた間は、ホイットニー・ヒューストンの絶頂期で、ほとんど毎回のように彼女が何らかの賞を獲得していた。後はガンズ・アンド・ローゼズも受賞回数が多かった。
そもそも「アメリカン・ミュージック・アワード」は、グラミーとセットで東北新社から持ち込まれていたソフト(当時は「コンテンツ」という言い方はしなかった)で、前述のように『We are the World』で世界的な注目を集めたのだ。
というわけで、東北新社のチームと番組制作をご一緒することになる。このときの同社のプロデューサーとディレクターのコンビは「ベストヒットUSA」と「カーグラフィックTV」を手掛けていて、そのご縁もあって、MCは松任谷正隆さんになる。
当時はスーパーボウル(NFLの優勝決定戦)が終わった直後くらいに授賞式が行われていて、僕もタキシードを現地で借りてクライアントさんや松任谷さんと一緒に授賞式会場に入らせてもらった。座った席の周りはセレブばかりでびっくりしたが、アカデミー賞もグラミー賞も、こういう授賞式会場というのはそもそも箱が比較的小さい。映像を観ているともっと大きな会場に見えるが、実際には2000席もないくらいだ。
授賞式を総括するコメントを、LAを見渡せるハリウッドの高級住宅を借りて、そのプールサイドで撮影すると、そのままLAで打ち上げ。今ならシューティングしたらすっ飛んで帰ってきて編集だろうが、そこはバブル期だ。
当時は東京の地価でアメリカの土地の大半が買える時代で、そのハリウッドの超高級物件も1億するかしないかくらい。今は少なくとも50倍以上になっているだろう。
MCの松任谷さんにアシスタントの女性タレントさん(アメリカンポップにそこそこ詳しい人)をキャスティングしていたが、最後の年は森高千里さんだった。まだ20歳になるかならないかで、確か「放送時には成人されているのでOKです」(スポンサーはキリンさんなので当然アルコールなので、演者さんが未成年というわけにはいかない)と、ずいぶんきわどい綱渉りをしたもんだと思う。森高さんもちょうど帰国したら初めてライブツアーに出るということで、飛行機の中でもイヤホンで曲を聴いて一生懸命に歌詞を憶えていた。
TBSの深夜(23時台)での放送は5%前後は取れていた。洋楽に関心が集まっていた時代ならではで、MTVの映像を若い人は誰もが楽しんでいた。
特番とはいえ音楽番組に5年間携わり、仕事で音楽に関わることができたのはとてもいい経験だった。




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