マーケターズロード 鹿毛康司 #02

ひとりの人として、お客さまと向き合う原点になった雪印時代―鹿毛康司

前回の記事:
鹿毛康司氏、独立して目指すは「生涯、マーケター」
 

雪印時代にお客さまに教えていただいた


 1984年、大学を卒業して新卒で入社したのは雪印乳業(当時)でした。今日も、こうしてインタビューで雪印時代の話を聞かれますが、どうしても先にお話したいことがあります。

 それは、僕は今もこよなく雪印を愛しているということです。お店では真っ先に雪印の商品を買っています。そして最高の品質を追求してきた素晴らしい誇るべき会社だと、今も思っています。

 在籍中の2000年に食中毒を起こしてしまいました。その直後に「お詫び広告」を出したのですが、これが僕の最初の「広告の仕事」です。しかし当時は宣伝部にいたわけでなくワイン事業の課長でした。いろいろな事情があってプロジェクトが結成されて、そこで広告の仕事に携わったのです。その広告づくりのあり様は生半可なお客さまへの向きあい方ではできませんでした。     
     
鹿毛康司(かげ・こうじ) 1959年福岡県生まれ。早稲田大学商学部卒業後、雪印乳業(現・雪印メグミルク)に入社。ドレクセル大学にてMBA取得(マーケティング、国際ビジネス)。帰国後、同社の営業改革を担当。2000年の雪印集団食中毒事件、2001年の牛肉偽装事件における被害者・マスコミ対応の前線に立つ。その後、2003年にエステー入社。15年にわたりコミュニケーション領域の責任者として活動し、戦略づくりだけでなく、プランナー、CM監督、コピーライター、作詞作曲家として独自のスタイルを築く。2011年の東日本大震災直後に手がけた「消臭力CM」は好感度日本1位を獲得(CM総合研究所11年8月)。ACC Gold、マーケターオブザイヤー(MCEI)、WEB人貢献賞など受賞。2020年かげこうじ事務所設立。

 僕は早稲田大学で亀井先生の広告ゼミの門下生です。といっても、できの悪い学生だったのですが。雪印には宣伝部門配属を約束してくれたので入社しました。ところが約束してくれた人事部長は異動になり、その話は消えて大阪支店で営業の仕事をずっとやることになります。

 当時は、転職なんかも自由にできない時代です。そんな中、僕は何をとち狂ったか、死ぬ気で勉強して1992年、31歳のときに米ドレクセル大学にMBA留学することになります。あんまり勉強し過ぎてなぜか痔瘻(じろう)になって手術もしました。人生にもがいて、何かを変えたかったのだと思います。この留学は、雪印が支えてくれました。

 帰国した僕はもう“天狗”状態。「これで俺はビジネスは何でもわかる、ブランドの権威だ」みたいな嫌な奴になっていました。そのあとに食中毒事件が起きてお客さま対応を経験するわけです。目の前のお客さまに「何をどうする」というご説明もできない無力な私がそこにいました。

 MBAで勉強したマーケティングやブランド論なんか吹き飛ぶほどの出来事です。世の中の厳しさが今も頭をよぎります。



 多くのお客さまに多大なご迷惑をかけたことは、本当に申し訳ないと思いました。お客さまのご自宅を訪問して、年配の男性から「正露丸のお金だけおいていってください」と言われた時は涙がでました。

 全社員はみんなお客さまにご迷惑をかけたと心からお詫びをして、必死に対応していたことは口にしてもよいでしょうか、すみません。

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