RYUKYU note #06前編
何もない場所から生まれた、沖縄人気リゾート「カヌチャ」誕生秘話
2020/11/18
ハワイをロールモデルにリゾート感を追求
――白石社長はそれからどうされたのですか?
私は高校を卒業して早稲田大学に入り、観光事業論を学びました。ただ、当時はどこの国でこんな風にうまくいっているという成功事例の話ばかりで、内部のシステムについてはあまり勉強させてもらえなかったので、立教大学の観光講座に通ってから沖縄に戻りました。それから銀行に2年間勤めた後、1990年から1992年までハワイの大学に1年半留学しました。
先ほど少しお話ししましたが、沖縄の観光が目指していたのはハワイ型です。ハワイは米軍基地や農業、観光など産業構造が沖縄と似ており、所得水準は50州の真ん中あたり。沖縄が経済的な自立を実現していくために、ハワイをモデルにしたいという考えが基盤にあったんです。
そこでハワイ滞在中は毎週、オアフ島やハワイ島などの観光地を回り、ハワイにあって沖縄にないものを探しました。そして、その課題を沖縄に持ち帰り、カヌチャで仕事を始めたというわけです。
――ハワイにあって沖縄にないものは、何でしたか?
ひとつは、リゾートを感じさせる空気感です。そこで私がハワイから帰ってきて、すぐに実践したのはネクタイとスーツの着用を一切やめて、「かりゆしウェア」を着ることでした。かりゆしウェアは、今ではワイシャツとネクタイに代わる服装として沖縄で広く定着していますが、もともとはハワイのアロハシャツを真似して生まれたものなんです。
ヤシの林や整頓された街並みをつくるのは簡単ではありませんが、個人の衣服を変えることはすぐにできます。2000年の九州・沖縄サミットを契機に急速に広がりました。その前は、みんなどこもかしこもスーツを着ていたんですよ。
バブル崩壊後にゴルフ場を開業。最初は過剰投資の焼け野原
――当時のカヌチャは、どのような状況でしたか?
構想から約10年後となる1989年に着工し、1993年にゴルフ場がオープンしました。私も父と一緒にオープニングに携わったのですが、当時はバブルが崩壊した直後。当初の計画では、ゴルフ場に加えてホテルが5軒できる予定でしたが、バブルを理由に撤退してしまい、結局ゴルフ場だけでオープンせざるを得なくなったというのが実情でした。
もともとは「カヌチャにリゾート街を形成する」という考え方から始まったため、ゴルフ場の管理道路の下には上下水道、電気などのインフラを2000ルームの客室用に整備していました。それがゴルフ場だけになったため、ものすごい過剰投資でした。
そのうえ、ゴルフ場はバブルの代名詞のような存在だったので、まるで悪の権化のような扱いで・・・、金融機関からは嫌悪されるし、プレイヤー数も減り、まるでカヌチャが焼け野原のように見えましたね。
ただ、街を形成するためのインフラだけはあり、それを生かそうと、コンドミニアムやホテル開発に着手していったのが我われの歴史です。
――焼け野原という状態を、どう乗り越えたのですか?
一見、逆境のように思えますが、世界的には経済成長の最中にあり、人の流れも活性化し、旅行市場は引き続き拡大すると考えていました。また、ハワイ型の経済圏をつくるのが、沖縄にとって正しい道だという認識も変わらず持っていました。
幸いにして、商業施設を開発できるインフラもあったため、新しく会社をつくり、出資を募り、新しくつくったホテルが「カヌチャベイホテル」です。それが1997年でしたね。
※後編「沖縄「カヌチャリゾート」が、空港から離れていても人気を集めた独自戦略」に続く
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