新時代のエンタメ舞台裏~ヒットにつなげる旗手たち~ #06
「きゃりーぱみゅぱみゅ」と「新しい学校のリーダーズ」で世界を席巻 アソビシステム代表中川悠介氏の「できないことはない」思考
日本の音楽・映画・ゲーム・漫画・アニメなどのエンタメコンテンツが、世界でも注目されることが多くなった昨今。本連載は、さまざまなエンタメ領域の舞台裏で、ヒットを生む旗手たちの思考を noteプロデューサー/ブロガーの徳力基彦氏が解き明かしていく。
第3回はポップカルチャーの聖地・原宿に拠点を構え、「きゃりーぱみゅぱみゅ」や「新しい学校のリーダーズ」を輩出した芸能プロダクションのアソビシステム 代表取締役の中川悠介氏が登場。大学在学中の2007年に同社を設立した中川氏は、新規参入が難しいとされる業界の「後発」にも関わらず、なぜ「きゃりーぱみゅぱみゅ」で世界を席巻することができたのか。前編の今回は、現在もインバウンドを魅了する「HARAJUKU CULTURE」の可能性に早くから気づき、世界への発信を牽引してきた中川氏の軌跡を辿る。
第3回はポップカルチャーの聖地・原宿に拠点を構え、「きゃりーぱみゅぱみゅ」や「新しい学校のリーダーズ」を輩出した芸能プロダクションのアソビシステム 代表取締役の中川悠介氏が登場。大学在学中の2007年に同社を設立した中川氏は、新規参入が難しいとされる業界の「後発」にも関わらず、なぜ「きゃりーぱみゅぱみゅ」で世界を席巻することができたのか。前編の今回は、現在もインバウンドを魅了する「HARAJUKU CULTURE」の可能性に早くから気づき、世界への発信を牽引してきた中川氏の軌跡を辿る。
「原宿のアイコンつくりたい」
徳力 まずはアソビシステムをつくったきっかけを教えてください。
中川 僕はもともと、人を集めるのが好きだったのです。Hi-STANDARDが主催した「AIR JAM」などのイベントを観てきた世代で、高校時代は自分でもバンドを組み、ライブハウスでイベントを開催していました。大学時代は100人規模のテニスサークルの会長をしながら、それとは別に月10回ほど、クラブイベントをしたり、学生ファッションショーイベントを全国展開させたりしていました。
アソビシステム 代表取締役
中川 悠介 氏
イベント運営を経て、2007年にアソビシステムを設立。「青文字系カルチャー」の生みの親であり、原宿を拠点に地域と密着しながら、ファッション・音楽・ライフスタイルといった、原宿の街が生み出す“HARAJUKU CULTURE”を、国内はもとより世界に向けて発信し続けている。自主イベント『HARAJUKU KAWAii!!』を2011年~全国各地で開催し、近年は、KAWAIIのアイコン「きゃりーぱみゅぱみゅ」のワールドツアーを成功させた。新プロジェクト「もしもしにっぽん」を発表し、日本のポップカルチャーを世界へ向け発信すると同時に、国内におけるインバウンド施策も精力的に行っている。
中川 悠介 氏
イベント運営を経て、2007年にアソビシステムを設立。「青文字系カルチャー」の生みの親であり、原宿を拠点に地域と密着しながら、ファッション・音楽・ライフスタイルといった、原宿の街が生み出す“HARAJUKU CULTURE”を、国内はもとより世界に向けて発信し続けている。自主イベント『HARAJUKU KAWAii!!』を2011年~全国各地で開催し、近年は、KAWAIIのアイコン「きゃりーぱみゅぱみゅ」のワールドツアーを成功させた。新プロジェクト「もしもしにっぽん」を発表し、日本のポップカルチャーを世界へ向け発信すると同時に、国内におけるインバウンド施策も精力的に行っている。
高校の頃からよく原宿に出入りしていたので、原宿ファッションや音楽のカルチャーが根付いていました。当時はファッション誌で読者モデルの人気が出始めていた頃でしたが、後に「青文字系」とも呼ばれる原宿の読者モデルたちはまだ世の中には認められない状況で、応援したいと考えていました。そういう動機で大学在学中の2007年にアソビシステムを作り、4年ほどはイベント運営をメインに行なっていました。イベントなどで出会った才能あるアーティストたちのために、プロダクション業務をやりたいとは考えていましたが、そう簡単にできるものではなく、ちょっとずつですね。外からは「事務所ごっこ」のように見えていたと思います。
徳力 なるほど。中川さんは今でこそ業界では有名な方なので、どこかの大手芸能事務所で勉強してから独立されたものと勝手に思い込んでいましたが、純粋にイベントや原宿カルチャーが「好き」なところから起業されたんですね。そのような中、「きゃりーぱみゅぱみゅ」さんに出会い、プロデュースすることになった。2011年にワーナーミュージック・ジャパンからCDデビュー、メジャーデビューしたのが2012年。貴社では実質的に、初のメジャーデビューだったそうですね。なぜ可能になったのですか。
note noteプロデューサー/ブロガー
徳力 基彦 氏
NTTやアジャイルメディア・ネットワーク等を経て、現在はnoteプロデューサーとして、ビジネスパーソンや企業におけるnoteやSNS活用のサポートを行っている。個人でも、日経MJやYahooニュース!個人のコラム連載等、幅広い活動を行っており、著書に「普通の人のためのSNSの教科書」、「アルファブロガー」等がある。
徳力 基彦 氏
NTTやアジャイルメディア・ネットワーク等を経て、現在はnoteプロデューサーとして、ビジネスパーソンや企業におけるnoteやSNS活用のサポートを行っている。個人でも、日経MJやYahooニュース!個人のコラム連載等、幅広い活動を行っており、著書に「普通の人のためのSNSの教科書」、「アルファブロガー」等がある。
中川 コネもツテもない状態で社会人経験もなかったので、何も分からず、ひたすら人に相談していました。きゃりーのデビューは、(Perfumeの音楽プロデューサーとしても知られる)中田ヤスタカと出会い、応援してもらえたり、知り合いづてにワーナーミュージック社を紹介してもらえたりしたことが重なって実現しました。これは特殊なケースだと思います。特にワーナーさんには、しょっちゅう教えを乞いに行って、助けていただきました。
今考えても正直、なぜうまくいったのかよく分かりません。ただ確かだったのが「原宿が好き」ということ、「原宿のアイコンをつくりたい」という思いがあったこと。きゃりーが登場する前までは、原宿は日本人よりもむしろ、外国の人たちに評価されていて、「日本のカルチャーの象徴だ」と言ってくれる人もいました。きゃりーは原宿系の読者モデルから始まり、音楽活動で注目されるより前の2010年からアメーバブログで変顔や独特のワードでバズり、後には総合ランキング1位を獲得するなど、人気が爆発する予兆は見えていました。「面白おかしい子」というイメージが先行していましたが、アイドルの素質もあることから「原宿のアイコン」の路線でプロデュースすることにしたのです。