マーケターズ・ロード 富永朋信 #02
父への反発から、外資系企業へ。マーケティングの“いろは”を学ぶ【イトーヨーカ堂 富永朋信】
“猛烈サラリーマン”の父が反面教師だった
僕の父は、証券会社で長く営業マンをしていました。絵に描いたような“猛烈サラリーマン”ぶりで、週末も当然のように仕事をしていました。極端に言えば、会社から言われたらどんな商品でも売る、それこそ書籍『エスキモーに氷を売る』(編集部注:ジョン・スポールストラ氏による著書名)ような、ザ・営業マンだったと言えます。
小学校から中学校まで、父の転勤に伴って東名阪を行ったり来たりし、転校を繰り返しました。「転校に振り回された」という子供じみた被害者意識もあり、いつしか芽生えたのが、父に対する反感。今にして思えば、父の重ねて来た労苦やその偉大さは身に染みるのですが、当時は相手のためになるかわからないものを闇雲に売りつけるような仕事ではなく、ロジカルでカッコいい、“ホワイトカラーっぽい”仕事がしたいと思うようになりました。
その原体験が、僕のキャリア観に大きな影響を与えたと思います。
その中で、最初の就職先として選んだのは、日本コダック(現・コダック)でした。1992年、バブルの終わり頃のことです。そもそも外資系を志望するようになったのは、日本コカ・コーラ(CCJC)に入りたいと思ったことがきっかけでした。首都高3号線をドライブしているときCCJCの本社が見えて、そういえばCCJCってすごい会社だよなと思い出したんです(笑)。
どこか秘密めいたところがあるけれど、世界中の誰もが知っているメガブランド。
しかし、新卒採用試験を受けましたが、思いは叶わずでした。ちなみに、その後もCCJCへの思いは消えず、2度の転職活動を経て、入社を果たすことになります。
マーケティングの原体験、先輩からAIDMAを教わる
当時の日本コダックは、アマチュア、プロフェッショナル、映画、製版、メディカルなど、フィルムの用途別の事業部制が敷かれていて、僕が配属されたのはメディカル事業部でした。入社後2年半ほどコミュニケーションを担当することに。製品カタログや顧客向けの機関誌をつくったり、展示会の企画運営をしたり、雑誌広告を出稿したりと、基本的な宣伝業務を経験しました。
そのときに、同じチームにいた先輩から「AIDMA」を教えてもらったことが、僕のマーケターとしてのキャリアの出発点になりました。これまでのキャリアの中で、とても大事な瞬間のひとつだったと言えます。
それまで、僕のマーケティングに対する認識は「何となくいいな、かっこいいな」程度のものでした。大学では法学部だったので、マーケティングの勉強をしたことも全くありませんでした。
しかし「AIDMA」を知り、自分がものを買うときの態度変容・行動を見事に言い当てられている気がして、「こんなものの見方、考え方があるんだ」と驚いたのを覚えています。
これをきっかけに、本気でマーケティングを学び、取り組もうと決めました。