あなたのクリエイティブ・ジャンプは何ですか?~ネプラス・ユー京都2024 特別企画~ #10

八天堂のくりーむパンはなぜ駅ナカで人気なのか?森光孝雅代表が語る「一点突破・全面展開」のクリエイティブ・ジャンプ【ネプラス・ユー京都2024特別企画】

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 アートとサイエンスを突き詰めて、ビジネス効果を飛躍的に押し上げる「クリエイティブ・ジャンプ」は、どのように生み出されるのか? そんなテーマに真っ向から挑むマーケティングカンファレンス「ネプラス・ユー京都2024(2024年5月20日・21日/ナノベーション主催)」に関連するAgenda noteの本連載。トップマーケターであるカウンシルメンバーによる熱のこもった寄稿に続き、関西などを拠点にクリエイティブな施策を展開する企業に「あなた(貴社)のクリエイティブ・ジャンプ」を訊ねていく。

今回は広島県三原市に本社を構える八天堂が登場。とろけるようなくちどけで、冷やして食べる定番「くりーむパン」は、なぜ都市部の主要駅ナカの一等地に常設店舗を構えられるようになったのか? かつては100種類以上のパンをつくっていたパン職人であり、創業家3代目にして飛躍的な成長の立役者となった代表取締役の森光孝雅氏に、自らの「クリエイティブ・ジャンプ」を語ってもらった。
 

「箱はないの?」に手土産市場見出す


―― 森光さんが経験した「クリエイティブ・ジャンプ」を教えてください。

 最初のジャンプは2008年6月に看板商品「くりーむパン」が完成した時ですね。今までにない反応をお客さまからいただき、売上という数値以上に、確かな手応えを感じました。

 その「くりーむパン」をパンではなく、スイーツとして広島のデパートの催事に出したのも一種のクリエイティブ・ジャンプだったと思います。パンコーナーに出していた時とは全く違う反応でした。パンとして売っている時は、200円という当時の値付けは「高い」と言われたのですが、スイーツとして売ると「安いね」と褒められ、飛ぶように売れたのです。

 そして、ご購入いただいた多くのお客様から「箱はないの?」と尋ねられたのも、衝撃的な体験でした。パンの感覚で袋に入れてお渡ししていたんですが、実は手土産として購入するニーズがあることに気づいたのです。パンでありながらスイーツとして手土産になるという、ニッチな市場があることを確信しました。こういった広島での経験を経て商品の出し方をブラッシュアップし、2009年に初めて東京でテスト販売を始めたのです。
 
八天堂 代表取締役
森光 孝雅 氏

 1933年、祖父の森光香氏が広島県三原市で和菓子屋として創業。父の義文氏が和洋菓子店として事業を継続。自身は神戸でパン職人の修行を積み、1990年に入社。1991年に焼き立てのパンの店「たかちゃんのぱん屋」を開店、10年で県内に13店舗展開。無理な店舗拡大から倒産危機に陥り、業態転換で乗り越える。2008年、冷やして食べる「くりーむパン」を開発し、2009年に屋号を「八天堂」に統一。駅ナカや百貨店を中心にスイーツパンの手土産市場を確立、国内外へ出店。2016年、広島空港前に体験型 食のテーマパーク「八天堂ビレッジ」を開設。現在ではスイーツパンを中心にアライアンスやコラボレーションで事業を展開し、福祉・農業領域の課題解決にも取り組む。2023年6月に創業90周年を迎え、「食のイノベーションを通した人づくりの会社」の実現を目指す。三原商工会議所会頭も務める。

―― 元々は「たかちゃんのぱん屋」として100種類以上のパンを作っていた森光さんが、なぜ「くりーむパン」一種に絞ったのですか。

 八天堂は1933年に和菓子屋として誕生し、私の父が和洋菓子店に変えました。3代目の私は1991年に26歳で三原市にパン屋を開店し、1997年に代表に就任しました。焼き立てパン専門店として、広島県内で13店舗まで拡大させたのですが、信頼していた社員が次々に辞めていき、一時は銀行に倒産の手続きに関する書類を渡されるまで追い込まれました。弟に借金をして経営を立て直すため、袋詰めのパンをスーパーマーケットなどに卸す卸業に転換しました。

 当時の広島県内のスーパーではまだ、こだわりの袋詰めのパンは売られておらず、天然酵母・無添加・地産地消にこだわったパンはよく売れました。県内のほとんどのスーパーの棚に置かれ、業績をV字回復させることができました。

 一方で、卸業になって3年目くらいから、次第に売れなくなってきているのを感じ取ったのです。本社のある三原市から県内各地にパンを運んでいたのですが、遠方だと1日1便が限界。売り切れて棚が空になっても、補充できないスーパーでは機会損失をしてしまうわけです。ここに同じようにこだわりのパンを売り込む競合のパン屋が増え、段々と扱われる棚の数が減っていくのが分かりました。パンの差別化が難しくなれば、近場の競合店の方が有利になります。このまま卸業を続けていても、また経営が厳しくなるのは目に見えていたので、次の手を考えなければと思いました。これは一度、どん底の倒産危機を味わったからこその危機感でした。

 今後の経営のあり方について考えていた折、首都圏では一品専門店が人気なことに目をつけました。ガトーラスクの「グーテ・デ・ロワ」で有名なガトーフェスタ ハラダさんなどは象徴的で、あちらも和菓子屋として創業し、昭和になってパン屋さんをしていたのです。それを業態転換して、ラスクで大ヒットされたんですね。

 地元の後輩の活躍にも影響を受けました。「ひとつぶのシャインマスカット」で有名な旬果瞬菓 共楽堂さんは、元々三原の和菓子店で、代表は中学の後輩なんです。経営が厳しくなった共楽堂さんが東京に飛び出したとき、私は正直「そんなに簡単に売れるのかな」と思っていたんですが、後輩は見事に業績を伸ばして、地元に帰ってくるたびに「東京は全然違いますよ」と笑顔で言うのです。「彼にできるなら自分も」と燃えましたね。こうした経験から、卸業を辞めて一品専門店として東京で挑戦する決意を固めたのです。

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