ライジングアジェンダ2024レポート #02
世界を駆ける中で、突然のくも膜下出血。人生の転機でTENTIAL杉野恵美氏が見つけたマーケティングに必要な幅【ライジングアジェンダ2024レポート】
2025/03/14
次世代を担うマーケターが一堂に集う「ライジングアジェンダ2024(主催:ナノベーション)」が2024年12月3日、4日に都内(ベルサール新宿グランド)で開催された。マーケティングの先輩が自らの経験と知見を語り、若手マーケターに学びのヒントを届けるセッション「This is my Story」で、「人生の転機から見つけたマーケティングの幅」と題し、リカバリーウェアなどを手掛けるTENTIAL 事業本部の杉野恵美氏が登壇した。
杉野氏は、外資系広告会社で東京やニューヨーク、サンパウロを飛び回りながら、自身が心から好きだと思えるマーケティングの仕事に没頭。しかし、32歳で突然襲ったくも膜下出血により、3カ月間の意識不明と入院生活を経験。一命をとりとめた後、33歳から働き方を大きく見直し、ドミノ・ピザやアメリカン・エキスプレスで新たなキャリアを築き、現在はベンチャー企業でマーケティングに携わっている。本レポートでは、杉野氏が人生の転機を通じて見つけた好きな仕事をすることの価値と、制約がある中でもチームの強みを活かしマーケティングのパフォーマンスを最大化するコツを紹介する。
杉野氏は、外資系広告会社で東京やニューヨーク、サンパウロを飛び回りながら、自身が心から好きだと思えるマーケティングの仕事に没頭。しかし、32歳で突然襲ったくも膜下出血により、3カ月間の意識不明と入院生活を経験。一命をとりとめた後、33歳から働き方を大きく見直し、ドミノ・ピザやアメリカン・エキスプレスで新たなキャリアを築き、現在はベンチャー企業でマーケティングに携わっている。本レポートでは、杉野氏が人生の転機を通じて見つけた好きな仕事をすることの価値と、制約がある中でもチームの強みを活かしマーケティングのパフォーマンスを最大化するコツを紹介する。
就職活動で100社落ちる
私は遠回りをしてキャリアを築いてきました。それは就職活動で100社落ちるところから始まります。就職活動をしていた時期は就職氷河期(1993年~2004年頃)のど真ん中で、慶応大学の学生でさえ6割が就職のために留年を選ぶような時代でした。私は広告会社に行きたいと考え、業界マップの本に掲載されている企業を上から順番にすべて受けていきました。そして誇張ではなく、本当に100社落ちました。

TENTIAL 事業本部
杉野 恵美 氏
12年間、外資系広告会社にてロサンゼルス・ニューヨーク・サンパウロ・東京を拠点に、多様な業種のブランドコミュニケーションに従事。グローバルマーケティング戦略のLocalizationやブランディングを強みとなり、ドミノ・ピザでは、広報含めたコミュニケーション全般を統括。 商品開発から関わり数々のヒット商品をロンチし、国内宅配ピザNo.1に貢献。 2019年からAmerican Expressにてリブランディング / 若年層コミュニケーションを行い、Z世代・ミレニアル世代の獲得に成功。現在はベンチャー企業のTENTIALに参画。
杉野 恵美 氏
12年間、外資系広告会社にてロサンゼルス・ニューヨーク・サンパウロ・東京を拠点に、多様な業種のブランドコミュニケーションに従事。グローバルマーケティング戦略のLocalizationやブランディングを強みとなり、ドミノ・ピザでは、広報含めたコミュニケーション全般を統括。 商品開発から関わり数々のヒット商品をロンチし、国内宅配ピザNo.1に貢献。 2019年からAmerican Expressにてリブランディング / 若年層コミュニケーションを行い、Z世代・ミレニアル世代の獲得に成功。現在はベンチャー企業のTENTIALに参画。
この経験で「自分には何の価値もない」ということを叩き込まれました。それでも、広告会社で働きたいという思いは諦めきれませんでした。自分に足りないものは何かを考え、英語力と海外職務経験を得て日本の広告会社に返り咲こうと決意しました。ただ英語ができるだけでは仕事は得られないと考え、米国でテレビCM制作の経験を積むことを目標に、300万円ほどの借金をして留学しました。
3年かけて段階的にマイルストーンを設定し、結果的に米国でテレビCMを制作する経験を積んで帰国。その後、念願の広告会社に入社できました。外資系では世界最大手の総合広告会社のグループに入り、ようやく自分の戦うフィールドを得て水を得た魚のように邁進していました。
ブラジルで身につけた柔軟性と対応力
次の転機は、突然社長から「杉野、ブラジル行かないか?」と言われたことです。当時、私はニューヨーク本社で、グループ全体の売上向上に貢献する営業の仕事をしていました。ポルトガル語もまったく話せない状況でブラジル行きを提案され戸惑いましたが、結果としては自分の意思で「行く」と決断しました。
ブラジルでの最大の困難は文化の違いです。日本では時間管理が徹底され、ミーティングの開始と終了時刻、見積もりや提案、入稿のスケジュールが正確なことが大半です。しかし当時のブラジルには、そうした時間の概念がありませんでした。
たとえば、翌日クライアントに見積もりを出す予定で議論して決めなければいけない場面でも、社内ミーティングの開始時間を聞くと「みんなが揃ったら」という曖昧な返答です。実際には午後になってから「そろそろ人が揃ってきたからやろうか?」という具合で、会議室も予約せず、終了時間も決めず、参加者全員が納得するまで続けるというスタイルでした。
そこにひとりで放り込まれ日系企業の窓口として、2012年のロンドンオリンピックに向けた都市開発プロジェクトに携わりました。日本企業はきっちりしているところばかりなので、「なぜできないの?」と問われることも多々ありました。でも、当時のブラジルでは本当にできない文化と環境だったのです。
この経験から私が学んだのは、柔軟性と対応力です。日本で言う多様性とはまったく次元の違うレベルです。たとえば、渋滞を避けるためにヘリコプターでの移動が必要になったり、サンパウロからリオデジャネイロへ飛行機で移動しようとしても、ストライキで空港が閉鎖されていたりといった状況にも直面しました。そのような文化や生活習慣の違いなども理解した上で、さまざまな状況でも臨機応変に対応する力と柔軟性を身につけました。
また、300人規模で0→1の組織づくりも経験しました。日本でイベントを開催する場合には広告会社の助けを借りながら、社内メンバーは10人程度で実施できることも多いです。ただ、ブラジルでは300人規模のスタッフが必要となり、0から1をつくり上げる困難さと面白さを体験しました。