トップマーケターたちに聞く価値共創時代のマーケティング #09

「マーケティング=顧客中心主義」は間違い? サービス・ドミナントロジック視点から高広伯彦氏が「価値共創」を解き明かす(前編)

前回の記事:
現代に葛飾北斎が降り立ったら通用する? マーケターが長く活躍するための唯一の道【クー・マーケティング・カンパニー 代表 音部大輔氏】
 ソーシャルメディアの普及や発達により、企業からの情報発信だけでなく、顧客による評判形成や企業と顧客の双方向的なコミュニケーションが重要だと言われる時代。そんな「価値共創」の時代に、マーケターはどう価値を定義し、マーケティングの実務に落とし込んでいくことができるのか、本連載ではFacebook Japan マーケティングサイエンス統括 執行役員の中村淳一氏がトップマーケターにインタビューし、そのヒントや考え方を解き明かしていく。

 第5回は、博報堂や電通、Googleなどでデジタル広告に黎明期から携わり、B2C、B2B、ベンチャーから大企業までのマーケティングに幅広い経験を持つ、スケダチ 代表 高広伯彦氏が登場。また同氏は京都大学で博士号(経営科学)を取得、社会構想大学院という社会人大学院でも教鞭をとっており、経営学や社会学といった学問領域からマーケティングの実務の現場までカヴァーしている。そんな高広氏がマーケティング業界でよく使われる「価値共創」というキーワードについて鋭く切り込みました。前編では、高広氏のこれまでの業務における経歴と経験からアカデミックなキーワードであるサービス・ドミナントロジックをどう捉え、世の中の価値共創の認識がなぜ誤っているのか、現代のマーケターが変えるべき思考方法などについて詳しく語りました。
 

デジタルの黎明期からコミュニケーションに携わってきた


中村 本日は、高広さんが考える「価値共創」について、いろいろお聞きしていきたいと思います。まずは、高広さんのご経歴からお伺いできますか。
 
スケダチ 代表
高広 伯彦 氏

マーケティング・営業企画・事業開発支援業、及び、社会構想大学院大学にて特任教授。博報堂での営業職を皮切りにデジタルキャンペーンの企画職へ。その後、電通に転職。コミュニケーション・プランナーとして広告キャンペーンに携わる。広告代理店勤務時代には、デジタル広告分野での国内外の賞を授賞。2つの広告代理店を経て、2005年にGoogleに入社。同社の広告プロダクトやYouTubeの国内導入や日本におけるマーケティングのチームを率いる。Google退社後は、外資系広告テクノロジー企業の日本代表やB2Bマーケティング支援企業の代表なども経験。また現在に至るのまで、スタートアップから大手上場企業に至るまで、企業サイズや業種を問わず、マーケティングや事業開発のサポートをしている。関西学院大学卒業、同志社大学大学院(社会学修士)、京都大学経営管理大学院にて博士(経営科学)。

高広 私は同志社大学の大学院を修了したあと、1996年に博報堂に入社し、最初に配属されたのは出版営業局という博報堂で一番最初の営業部署で、出版社を担当する営業職からキャリアをスタートさせました。就職活動のドタバタに関しての詳細は2012年に出版された『次世代コミュニケーションプラニング』(SBクリエイティブ)の中にも書いたのですが、実は大学4年生から大学院修士課程まで、合計6回に渡り、電通と博報堂を受け、最後に残った博報堂の一般枠でようやく入社のご縁をいただいたという、就活落ちこぼれ状態だったんですよ。もともとは雑誌や書物に関する仕事をしたいとおもって出版社を考えていたのですが、学生時代にやっていた出版社でのアルバイトを通じて電通という会社を知り、また、大学・大学院で社会学やメディア論をやっていたので、いわゆるマス四媒体のみならず、イベントも含んで、色々なメディアが扱えるという理由で広告代理店を選びました。入社時にはクリエイティブ職も希望していたのですが、入社後は最初営業職として、アスキー、ベネッセコーポレーションなどの担当として、メディアプランニングからクリエイティブの領域まで関わりました。この数年で広告ビジネスの全体構造を理解できたのは良かったですね、その後、博報堂に当時あったインタラクティブ局という部署に異動し、インターネットなどの新しいメディアに関わることになりました。その後、博報堂の分社化によってできた博報堂DYメディアパートナーズの i-メディア局に異動することになりましたが、これらの部署に在籍できたことで、1990年代後半から2000年代初頭のデジタルに関するサービスの事業開発や広告主向けのインターネットマーケティングを経験できたのはラッキーだったと思います。今でもそのときの経験が活きています。

ただ残念なことに、米国の同時多発テロによる不景気も重なり、「ドットコム・バブル」と言われたインターネットビジネスに関する勢いが2001年~2003年ぐらいにかけて落ち込み、「インターネットは儲からない」と考えられる風潮がでてきはじめた。今では考えられませんが、非常に大きな向かい風の時代で、私自身、自社(博報堂)とクライアントの事業立ち上げにも取り組んでいましたが、とんでもない逆風でしたね。挙句の果てに、そうしたネガティブな要因から、先進的な部署であった博報堂のインタラクティブ局は残念ながら解散。そうした経緯から、先ほどお話した、博報堂DYメディアパートナーズのi-メディア局に異動となったわけですが、当時のオフィスは汐留のビルで、ひょんな縁から同じ汐留の電通に徒歩1分の転職をすることになったわけです。

転職した先の電通においても、同じくデジタル領域の部署であるインタラクティブコミュニケーション局に在籍、今でいう、デジタルマーケティングやデジタルクリエイティブ、新規事業開発などの仕事をしていました。そこで杉山恒太郎さん(ライトパブリシティ 代表取締役社長、「ピッカピカの一年生」のCMを作ったクリエイティブ界のレジェンド)や、長澤秀行さん(CCIの社長や日本インタラクテイブ広告協会事務局長を務めたデジタルガレージグループの顧問)、佐藤尚之さん(通称“さとなお”さん、『明日の広告』の著者で、ファンベースカンパニー 会長/ファンベースディレクター)や、中村洋基さん(PARTY)など、今考えると上司や同僚にとんでもない人々が集まっていました。さとなおさんなんて電通時代の最後の上司で、「ブランデッドエンターテイメントCR部」という私と二人の部。さとなおさんから「新しい部署だから肩書はなんでもいいんじゃない?」と言われて、「じゃあ、コミュニケーション・デザイナーにします」って言って。おそらく2004~5年のタイミングでこの肩書は業界初だったんじゃないかな(笑)。

で、日本の二大広告代理店で働いているうちに、「広告」の、中でも「広告代理店」というひとつの業界の中で仕事を続けていても、キャリアや経験を伸ばすことはできないと思って独立を考えだしたんです。すると、その話を聞きつけた友人から今ほど名前も知られていなかったGoogleに誘われて、2005年頃、AdWordsなど広告プロダクトの営業企画チームの部長職として転職しました。当時は、AdWordsも動画広告などの新しい広告フォーマットやTV adsやPrint Adsといったマスメディアの広告プロダクトのテストなども行われていて、非常に刺激的でしたね。そうした野心的なプロダクトの多くが、実際には日の目をみませんでしたが。あとはYouTube広告の日本導入などに関わったりして、Googleには3年ほど在籍。たった3年ですが非常に濃い時期だったので、10年ぶんくらいに匹敵しそうです。

その後、2009年に広告主や広告代理店、マーケティングツールベンダーなどを支援するという意味で「スケダチ」として独立し、広告ビジネスやDXまわりのコンサルティングや企業規模、B2B、B2C問わずマーケティングの企画など、さまざまな企業のサポートを行なっています。

中村 高広さんは、デジタルの黎明期から第一線で活躍していらっしゃいますね。

高広 どれだけ活躍できているかはわかりませんが(笑)、興味をもって関わってきたということで言えば、関西学院大学の社会学部時代から、同志社大学大学院の修士課程まで、文化社会学とメディア論を専攻していたので、メディアやデジタルというものにもともと関心が高かったという背景もあります。ちなみに大学院の修士論文は、ポケベルにおけるコミュニケーションと消費社会論や今で言うユーザーイノベーションをテーマにしたものでした。その論文の一部は、書籍『ポケベル・ケータイ主義!』(ジャストシステム)の中にありますので、読んでいただくことが今でもできます。

「38年目のメディア ポケベルのメディア・コミュニケーション論的考察」(電気通信普及財団テレコム社会科学学生賞受賞)

『ポケベル・ケータイ主義!』(ジャストシステム)

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