関西発・地方創生とマーケティング #41前編
空前絶後の「阿修羅ブーム」、お寺が大ヒット弁当開発? 奈良・興福寺の僧侶が実践する「扉づくり」
これまで関西を中心に面白いマーケティングの取り組みをされている人や企業を取材してきた本連載ですが、今回は少し異色の回となります。俳優の鈴木亮平さんが出演するJR東海のキャンペーン「いざいざ奈良」のロケ地ともなっている奈良・興福寺執事長の辻明俊さんにお話を伺いました。
実は辻さん、奈良のマスコミには有名な存在だそう。前職で報道記者をしていたアジェンダノート編集部の木原みな子さんの紹介で今回の取材となりました。お寺といえども、さまざまな活動のために資金が必要で、マーケティング的な思考や戦略があるのでは…という仮説を立てて臨みましたが、お坊さんならではの深遠なお話を聞くうちに、マーケティング思考が揺さぶられるような感覚になりました。前編では、お寺がどうして企業とコラボして食品事業などをされているのか、その背景や目的をお聞きしました。
実は辻さん、奈良のマスコミには有名な存在だそう。前職で報道記者をしていたアジェンダノート編集部の木原みな子さんの紹介で今回の取材となりました。お寺といえども、さまざまな活動のために資金が必要で、マーケティング的な思考や戦略があるのでは…という仮説を立てて臨みましたが、お坊さんならではの深遠なお話を聞くうちに、マーケティング思考が揺さぶられるような感覚になりました。前編では、お寺がどうして企業とコラボして食品事業などをされているのか、その背景や目的をお聞きしました。
2カ月で5万食超販売、ヒット賞も
なぜ、お寺が企業とコラボレーションして、お弁当やふりかけをつくるのか。お寺も企業と同じで、人々に何らかの価値を提供するため、その原資となるものが必要です。そのためにはまず認知、多くの人々に知ってもらうことが大事。そういう仮説を持ってお話を進めようと思ったのですが、お話は意外なところから始まりました。興福寺というお寺の成り立ちについてです。
お坊さんというと物静かなイメージがありますが、辻さんは長くマスコミとの広報窓口を務めておられるためか、弁が立ちます。ここからは辻さんの語りを中心に、私の考えを挟む形でお届けします。
興福寺執事長(兼境内管理室長)
辻 明俊 師
2000年に興福寺入山。2004年から広報・企画事業などに携わり、現在に至る。
2011年、一生に一度しか受けることを許されない「竪義加行」を成満。2012年に興福寺・常如院住職を拝命。2023年4月、興福寺執事長に就任。
著書に『お坊さんに聞く108の智慧』(共著 芸術学舎 2017年)、『興福寺の365日』(単著 西日本出版社 2020年)、『奈良公園の案内所~極~』(分担執筆 KADOKAWA 2024年)、その他に興福寺『多聞院日記』発酵食品再現研究会 会長をつとめる。
辻 明俊 師
2000年に興福寺入山。2004年から広報・企画事業などに携わり、現在に至る。
2011年、一生に一度しか受けることを許されない「竪義加行」を成満。2012年に興福寺・常如院住職を拝命。2023年4月、興福寺執事長に就任。
著書に『お坊さんに聞く108の智慧』(共著 芸術学舎 2017年)、『興福寺の365日』(単著 西日本出版社 2020年)、『奈良公園の案内所~極~』(分担執筆 KADOKAWA 2024年)、その他に興福寺『多聞院日記』発酵食品再現研究会 会長をつとめる。
辻 興福寺といえば阿修羅像(国宝)。建物なら五重塔(国宝)じゃないでしょうか。ちなみに国宝仏像彫刻の所蔵件数は日本一(※1)なんですよ。でも、そのことはあまり知られていません…。
現在の境内には門も塀もありませんから(※2)、昼夜問わず誰にでも来ていただける。ある意味、奈良県内ではもっとも開かれた寺院ではないでしょうか。ただ、境内を歩いていると、どこが興福寺か分からず、気が付かないうちに通り抜けている人もいる、そんな悩みもあります(苦笑)。
※1:仏像彫刻/国宝18件
※2:1717年の大火で伽藍西半分が焼失。その時に南大門は失われた。
しかし、その歴史は濃密です。およそ1300年前、平城京遷都の立役者である藤原不比等が一族の氏寺(うじでら)として創建。伽藍は都を一望できる一等地に建てられました。氏族の栄華繁栄とともに、中世には、春日社と一体化して大和一国を配下に治めるなど、聖・俗界に絶大な勢力を築きます。
最先端の学問・文化・技術が伝わり、次代に受け渡す役割を担ってきました。現存する仏像や伽藍は、まさに先人の智慧と知識の集積といえるでしょう。あまり知られてはいませんが、能楽や酒造、医薬の発展に大きく貢献したのも興福寺なんです。
奈良時代、藤原不比等の娘・光明皇后は、諸国の薬草を集めて病人に施す「施薬院(せやくいん)」、貧しい人や孤児を救済するための「悲田院(ひでんいん)」を発願建立しました。当時、医療と薬のノウハウを誰が持っていたかというと、それはお坊さんたちでした。行基菩薩の「福祉の精神」、鑑真和上がもたらした「医術と薬の知識」は、今も大切に受け継がれているように思います。
豊富な知識は、やがて食へも転用されます。室町~江戸時代初期の興福寺の僧侶が綴った「多聞院日記」には、味噌、酒、漬物など、さまざまな発酵食品がつくられていたことを裏付ける記述があります。そのなかでも、現代の醤油に近いと考えられる「唐味噌(とうみそ)」に注目しました。今年(2024年)から奈良先端大の先生に協力を仰ぎ、唐味噌を復刻醸造する研究会(興福寺「多聞院日記」発酵食品再現研究会)を立ち上げ、活動しています。将来再現できれば、酒造だけではなく、醤油造についても高い醸造技術と知識を持っていたことを証明でき、奈良の発酵文化がさらに味わい深いものとなります。もし完成したら、お寺でも販売できないかな、と(笑)。
古い文献に風を通すと、お寺は宗教的・教学的な役割をもつだけではなく、文化を育み、伝えていく空間でもあったことがよく分かります。
しかしですね。世間の「お寺」に対するイメージとかけ離れたことをすると「なぜそんな必要があるのか」など、後ろ向きな意見もあって溜息がでることもありますけれど…。
2013年に南円堂と北円堂の特別公開を行った際、JR東海の子会社(当時はJR東海パッセンジャーズ)と駅弁を共同開発しました。いつかやってみたい、そう考えていたことが叶って、ほんま嬉しかったですね。
ただ、完成までは苦労しました。調理責任者の方へ企画説明する際も、一つひとつの料理に込めた意味や熱意を伝えて、野菜の大きさ、硬さ、味付けにもこだわりました。精進ですから動物性たんぱく質は避け、代わりに豆腐や興福寺秘伝の味噌を再現したものを使い、色彩豊かでヘルシー、お腹も満足するお弁当をつくっていただきました。境内の売店や東海道新幹線の主要駅などで販売すると、すぐ売り切れてしまうので、私のX(当時はTwitter)アカウントで「残数15個 南円堂休憩所で販売中」などと発信しました。販売期間はおよそ2カ月だったのですが、5万食以上が売れて話題になりました。その年の日経トレンディ「ご当地ヒット賞」をいただき、皆で喜びました。
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辻さんは「寺以外のいろいろな方に関わってもらい、そこに私たちの思いを乗せたほうが、多くの人に興福寺の考えていることが伝わりやすい」と言います。確かに、お寺が主体となる言語は、一般社会の多くの人にとってはとっつきにくいかも知れません。お弁当という親しみやすく、それでいてストーリーや美味しさが伴った商品を通じて、お寺が発したいメッセージ、それこそ「心」のようなものが伝わりやすくなるのかもしれません。
ちなみに、辻さんの「師匠」多川俊映寺務老院は、長年、興福寺のトップである貫首(かんす)を務められた方で、一見、お寺らしからぬチャレンジングなことをすると「やったらええ」と応援し、批判の声には「言わせといたらええ」と意に介さなかったとか。(でも、本当に間違ったことは一切認めることはなく、鋭く指摘されることも…とのことです)
このようなトップの姿勢も、ユニークな取り組みを強く後押ししたのでしょう。お弁当の掛け紙に書かれた「心」は、多川師の揮毫だそうです。